2024年4月13日 大谷隆

範囲

序ーー切断論

0-2非意味的切断の原理

テクストという言い方

今回の範囲に入る前に、現代思想でよく使われる用語である「テクスト text」とはどういうものかを先に調べる。前回の範囲で「テクスト」が出てきていた。

デリダは、主に哲学・思想のテクストを標的にし、その首尾一貫するかに見える構造において実は伏在している綻びの箇所をアイロニー(皮肉)たっぷりに曝いてみせる、という「脱構築」の論者として活躍する。[16]

この箇所の言及の前に、ちょうど並行して読んでいた浅田彰『逃走論 スキゾキッズの冒険』に入っている「〈共同討議〉マルクス・貨幣・言語(柄谷行人・岩井克人・浅田彰)」に、良い感じの注釈があった。

「作品」が、主体としての作者に背後から支えられた有機的統一を持つーー少なくとも持つとされるのに対し、テクストとは、意味のズレや横滑りのプロセスの中でそのような統一を解体し主体を散乱させる記号の織物、書くことと読むことへ、そして間テクスト性の領野へと開かれた、完結することのない織物をいう。

英語のtextが、ラテン語の「織る」に由来している。テクスチャーという言い方にも通じる「織物」。作品という言い方は、作者と対になって初めて成立するもので、作品と作者は、言ってみれば作品‐作者という一つの構造体として一体化したものである。これに対してテクストは、作者性(主体性)を解体された、それ自体で独立的なオブジェクトでありつつ、しかし、テクスト間ではネットワークされた、開かれた(未完成な)ものとなる。

例えば、このレジュメ上の上記の引用も、このレジュメと『逃走論』に収録されたある鼎談記事との連携であり、レジュメに引用されていない部分にも関わりがある。言い換えれば、このレジュメは、引用元までをゆるく含んでいるため、レジュメ自体で完結していないことになる。すべての言葉は、その言葉を通じて、他のテクストと関係を結んでいる、とさえ言える。

このようなテクストの説明から、作品ー作家的な「作品」と比べ、何かしら表面的な、悪く言えば薄っぺらな印象がえられるかもしれない。「テクストを(として)読む」というのは、作品の奥底に埋め込まれた作家の真意を読み取らず、言葉上の表現にしか注目せず、上っ面の解釈にしかならないのではないか、と。そして、それはある面で、そうでもあるのだけれど、上記引用の注釈は次のように続く。

テクストをディコンストラクト(脱‐構築)すること。それは、テクストを解釈して完結した《意味の構造》のコンストラクション(構築)を図ることではなく、また、盲目的なディストラクション(破壊)によってテクストを無意味な断片の集積に還元することでもない。たとえば、あるテクストが「A」という意味内容を一貫して主張している場合、まさしくその一貫性ゆえにーー論旨の混乱ゆえにではなくーー自らを裏切って「非A」をも同時に主張せざるを得なくなっていることを示すというのが、典型的なディコンストラクションの戦略である。言いかえれば、それは、著者が自らの意に即して(according to)語っていることではなく、思わずも(in spite of)語ってしまうことを読み取る技術である。

作品ー作家的な「作品」読解であれば、その読解が作家の意図に沿っているかどうかが問題になったりする。「作家の真意」なるものが「正解」としてあって、そこに突き当たるかどうかまでが読解の問題となる。しかし、テクストの解釈であれば、著者の意図は、作家の真意のような絶対性を持たない。テクスト解釈を著者にぶつけた際に、必ずしも「そうだ」という返答にはならないし、そうだからといって、誤った解釈、無価値な解釈とはならない。著者の意図がテクストの限界深度とは言えず、著者の意図をはみ出したり通り過ぎたりして、読解領域を作り出すことができる。

このディコンストラクションを得意としたのがデリダで、レジュメ冒頭の引用に戻ると、

デリダは、主に哲学・思想のテクストを標的にし、その首尾一貫するかに見える構造において実は伏在している綻びの箇所をアイロニー(皮肉)たっぷりに曝いてみせる、という「脱構築」の論者として活躍する。[16]

『逃走論』の引用とだいたい同じようなことが書かれていることがわかる。

デリダは「曝いてみせる」からといって、標的テクストの「論旨の混乱」のような明示的な瑕疵を突くのではない。「首尾一貫した」なんの問題もないはずの論旨であるはずなのに「伏在している綻び」がどうしても発生するという構造というもの自体が持つ脆弱性からひっくり返す(ポスト構造主義)。現代思想では、この手の脱構築を当たり前にやっている。本書もそう。それを念頭に置いて、今回の範囲に入る。

三つの解釈、「接続」「切断A」「切断B」

まず、『千のプラトー』において、

リゾームの第一の原理は、「接続の原理」であるとされている。[26]

「とされている」のだから、千葉自身の解釈はそうではない。また、次に出てくる浅田の解釈も微妙にズレていることを千葉は強調する。

浅田の解釈では、アドホック(その都度に仮の)でしかない、他者への接続したり/しなかったりの勧めと見ているように思われる。「スキゾ・キッズ」は快活に、切断と接続をスイッチする。[26-27]

「接続の原理」を一般的解釈とすると、浅田の解釈は「接続したり/しなかったり」の原理、「切断接続」の原理となる。なお、前回のレジュメで千葉さんの文章への印象として書いた「仮組感」は、「アドホックな」と言い換えられるかもしれない。

接続と切断は、一般には対立概念で、接続とは「非切断」であり、切断とは「非接続」である。この理屈は首尾一貫して完全なように見える。しかし、前述のテクストの脱構築のところでもあったように、実は、このテクストは、「自らを裏切って「非A」をも同時に主張せざるを得なくなっている」。

「接続する」ためには、切断された状態を肯定しなければ「接続する」ことができない。切断されているがゆえに、接続できる。つまり、接続よりも「まえに」すでに、切断されている必要がある。接続の「原理」なのに、それよりも前に、「切断がある」。

あるいは、すでに接続されているものを、別のものに接続し直す場合、もとの接続を切断する必要がある。この場合の接続は、同時に切断している。「接続」の原理を主張しようとすると、接続という状態だけでは主張できない。切断も同時に主張せざるを得ない。

この話はトリッキーに聴こえるかもしれない。しかし、東洋思想的には、例えば陰陽など、単独で存在するのではなく、相反する両者が共に振り子のように変動する考え方があって、「陰」=「非陽」、といった単純な分類ではない。お互いにお互いを含み込んでいるような状態として図示されたりもする。男女も、相手があって初めて成立するもので、二項対立的なものとは、必ずしも認識していない。陽が陰よりも先にあったり、男が女よりも先にあったりするわけではない。

浅田の解釈は、一般的解釈から一歩踏み込んだ「脱構築」によってなされているとも言えるかもしれない。

ここからさらに、千葉の解釈が、接続される。それが「非意味的切断の原理」の重要性への指摘である。

接続したり/しなかったりということ。『千のプラトー』は、先程の「接続の原理」に加えて、リゾームの「非意味的切断の原理」というものを、次のように説明している。

(・・・・・・)非意味的切断の原理。これは、諸々の構造を分かち、あるいは一つの構造を横断する、あまりに意味をもちすぎる切断に対抗するものだ。リゾームは適当な一点で切れたり折れたりしてかまわない。リゾームはそれ自身のしかじかの線や別の線に沿ってまた育ってくるのである。

哲学は、たいていは、絡まったものごとに有意味な切断をして、ものごとを理解するための営みであると思いなされている。それに対し、「非意味的」切断も起こってよいとは、ひどくいい加減なことに思われるかもしれない。が、重要なのは、「意味をもちすぎる切断」の回避である。[27‐28]

ここに2つの切断が提示される。

まず、切断Aーー権力の強いるしがらみからあなたを切断すること、それと正面から闘わないこと。そして、接続ーーしがらみの側方に、勝手に接続されていく関係のリゾームを見いだす。のみならずさらに、切断Bーーそのリゾームをあちこちで切断すること。リゾームを「有限」にすること、様々に部分的な「無関心」ーーこれが「意味をもちすぎない」ことだろうーーの刃によって。その上で、再接続し、そしてまた切断し、再接続するのである。   切断Aは、ツリーからリゾームへの切断であり、切断Bは、リゾームそれ自体の切断であると言える。[28]

千葉さんが、ドゥルーズのテクストの解釈として、何を新たに、浅田の解釈から一歩進めて、現在を(再)接続しようとしてるのは、このあたりの話だろう。

僕たちが、「通知」によって、LINEの返信を、スマホゲームの操作を、インスタグラムの縦スクロールを、毎秒数回の速度で、中断、再開、しているのは、この、接続したり、切断Aしたり、切断Bしたりすることではないか。例えば、Instagramの閲覧のスクロールを、LINEの通知によって、切断されるのは、非意味的な切断のように思える。あるLINEグループへの返信を入力中に、別のLINEグループに投稿されたことを示す通知が入り、そのグループに画面を乗り換えて、投稿をチェックし、Likeマークを付け、またもとのグループ画面に戻って返信の続きを入力する。

Twitterのタイムラインには、深刻な議論やディスり合いや被災地の情報の、最中に、吉野家の牛丼のアップ写真(飯テロ)が流れる。

一人の人間が書く、一つの文章の書き方としても、なんと、非意味的切断の原理を、実戦投入しつつ、その内容を論じようとしている、のだとしたら、すごい。

大谷隆