2024年3月16日 大谷隆

範囲

序ーー切断論

0-1『アンチ・オイディプス』と『先のプラトー』

とりあえず今の興味

千葉雅也の文章、文体の魅力を探りたい。

とりあえず今の印象

  1. 短い断片が並んでいる。
  2. 断片同士は、軽く「接続」されている。ガチッと組み合わされてはいない。
  3. ちょっと異質な感じのするエピソードがやや唐突に現れる。飽きない。

とりあえずこの印象たちを説明する。文章の内容である「切断」と「接続」については、この説明から何かしら読み取れるかもしれない。

1短い断片

ジル・ドゥルーズ。一九二五年生まれ、フランスの哲学者。[15]

これは哲学書として、あるいは論文としては、つい、こう書き直したくなる。

ジル・ドゥルーズ、一九二五年生まれフランスの哲学者である

しかし、そうはせずに、途中の感じ、メモっぽさを残した中途半端な状態で完成したことにしている。

2軽い「接続」

僕が「直した」文体は元の文に比べてガチッと組まれた印象がある。「は」「の」「である」が接着剤になっている。それに対して元の文は仮組みのように材木がただ置かれている。

元の文章の「一九二五年生まれ」と「フランスの哲学者」は、順序を簡単に、手軽に入れ替えられるが、「直した」文章は、一度接着剤を剥がして再構成しもう一度接着しなおさなければ以下のようにならない。

ジル・ドゥルーズは、フランスの哲学者であり、一九二五年に生まれた。

言葉を接続したり切断したりする作業工程の重さが大きく違う。千葉さんの文章は、軽い仮組みでつながりを切ったり、再接続したりできるように言葉が「置いてある」。

3やや唐突に現れるエピソード

この仮組感は、単語と単語の並びだけではなく、句と句、文と文、段落と段落の各レベルで、同じように生じているように思える。

第一段落から第二段落へ、ここでこの少し重たいエピソードの塊を持ってきているが、その後の第三段落は、そんな事件には触れなかったかのように、第一段落の位相に戻っている。

第二段落は、芋づる式に関連事項が連なって、引きずり出されてくる感じがする。このエピソード全体は、完全に場違いとは言えないまでも、やや唐突に感じる。ジル・ドゥルーズの死の情況については、あとがきのようなところに書かれていたほうが自然だろうと思われる。しかし、ここに置かれている。わざわざそうしてあるように感じてくる。ということは重要である。

単純に生きることを楽しめ、「肯定affirmer」せよというメッセージを発し続けた人である。その彼が、九五年一一月四日、自宅のアパルトマンで、単純に死ぬこともまた等しく肯定するかのように、酸素マスクを自ら外(ディスコネクト)し、傍らの窓から飛び降りたのだった。[15]

生きるということは連続した、つながったことで、死ぬことはその繋がりの切断であるとすると、生=接続、死=切断、これがそれぞれ「単純に」あるということは、順序順列に強い意味をもたせたり、接続される要素の位置が重要であるというよりは、そういったものは任意に気軽に変更できるということかもしれない。

この第二段落は、第一段落の痕跡を残した二冊の主著の話から、病気に話題を転じ、一気に死の瞬間までつなぎ、そこにドゥルーズの哲学のコアである「接続(切断)」を引っ掛けてしまう。段落全体が、ゴロッとした宝石の原石のような大きな塊を思わせる。

大きな哲学的テーマとでも言うようなものが、この、目についたところにその時思いついたことを書き足していく「都度書き足し方式」の文体で実現している。とてもおしゃれ。

このような唐突感のあるエピソードとして、こちらはもう少し「小ネタ」感があるが、

浅田によってカタカナ語化された「スキゾ/パラノ」は、八四年の第一回流行語大賞・新語部門で、銅賞を受賞する。そのとき金賞に輝いたのは、忍耐のドラマ『おしん』への国民的共感を示す「オシンドローム」であった。[24]

「オシンドローム」であった。と終わるこの段落も、なぜこの話が?と思うような違和感が残る。「オシンドローム」という言葉が表しているのは、この国の強固な価値観で、漬物石のような重さを感じる。それが「金」で、軽やかな「スキゾ/パラノ」が「銅」という皮肉の表現なのだろうか。このエピソード自体をここにポンと嵌め込んでしまう感覚自体が軽い。

ちょっと違和感のあっても、連想ゲーム的に、何か小さな接点があるなら、テクスチャーやニュアンスが多少ズレていても、パッチワーク的に入れ込んでしまう感じがある。

重厚で厳格な「哲学書」というより、そっと配置された関連のズレを楽しむユーモアを感じる。何が現れるのか予測しにくく、飽きない。

言葉遣いと哲学「言祝ぐ」「励まし」

千葉さんの著書を読んで本当に良かったと思えた瞬間があって、それは千葉さんの初の小説『デッドライン』で、

「ドゥルーズは、生成変化を言祝いだわけです。」

と、徳永先生は言った。

この「言祝ぐ」という言い方が僕に感染する。何かを「肯定する」、「推奨する」ということだが、哲学書に対してその表現を使うならば、その哲学には明確に「価値の傾き」があると認めることになる。莊子なりドゥルーズなりは、最終的にどう生きるのを良しとしたのか。という実践の問いが、その表現の中にはある。

(略)

僕は何を「言祝ぐ」のか。僕自身の欲望を内側からよく見なければならないのだ。ドゥルーズを通して。[『デッドライン』106‐107]

大学院生の主人公の指導教官である徳永先生の「言祝ぐ」という言葉。普通の用法では「お祝いを述べる」といった意味で、「明けましておめでとうございます」などが「言祝ぐ」例。ここから「寿(ことぶき)」にも。

哲学というと、どうしても「正しさの応酬」のようなものという思い込みが消えない。なかった。従来の特定の哲学者を持ち出し、ここが間違っている、正しくはこうだ、とやっている印象だった。

しかし、そういった「普遍性の主張」としての「正しさ」は、実は哲学の「一番」ではない。一番なのは、つまり、その哲学者や哲学書によって「言祝がれているもの」の提示で、言ってみれば、その人個人の、個的な「僕自身の欲望」だということだ。哲学は科学のようにフラットに正しさを提示することではなく、自分の主張に「価値の傾き」があることを認め、ある思想や立場や人々を「励ます」ことだ。そうだと思っては来たつもりだったけれど、この言葉遣いがとてもうれしかった。

マイノリティは道徳に抵抗する存在だ。抵抗して良いのだ。いやすべきなのだ。そういう励ましが、フランス現代思想のそこかしこから聞こえてきたのだった。[『デッドライン』107]

「動きすぎてはいけない」においては、これらはまず、次の箇所で現れた。

ジャン=ポール・サルトルらの実存主義は、「実存は本質に先立つ」という合い言葉によって、個々に独特の人生(=実存)を開拓する自由を励ますものであった。[16]

その約10年後、『千のプラトー』は、多方向へのダイナミズムを「リゾーム」という新しい概念によって再定義する。この概念は、日本においては、大まかには、第二次世界大戦で自壊した近代の富国強兵システム、その敗戦後の衣替えとしての「日本株式会社」の硬直化から、私たちを開放する決めぜりふとして言祝がれてきたように思われる。[19]

「正しい」ことが一番であったり唯一であったりするというよりは、「何を言祝ぎ、励ますのか」が重要だというのは、本を読み進めていく上で心に留めておきたい。

以上