2024-01-30 大谷隆

範囲

第六章 意識は何をなしうるかーー『エチカ』第四部、第五部

1 再び『エチカ』へ 2 『エチカ』第四部ーー良心と意識

1 再び『エチカ』へ(前回のあらすじを含め)

『神学・政治論』は『エチカ』にとって必要だった。スピノザは、『エチカ』で意識を扱う前段として、契約について論じる必要があった。

神との契約による宗教状態や至高の権力との契約による社会状態において発生する権利を「みんな一緒の力や意志に基づいて決める」。つまり、契約の成立以前である自然状態では意志を問うことができない。意志を等には契約が成立している必要がある。

このことを『神学・政治論』において論じている。同書は『エチカ』とは別の本だが、『エチカ』における意志(や意識)を論じるには『神学・政治論』を含めなければならない。

2 『エチカ』第四部ーー良心と意識

言葉の系譜学

「完全・不完全」という言葉をスピノザは分析している。

「完全である」とはもともと「完成している」という意味で「人間が何かの製作を企て、その企てを成し遂げた場合を指していた」。

完全であるとか不完全であるなどと言えるのは、その意図された目的が知られている場合に限られていた。[280]

そのあとに「一般的観念」が形成される。例えば「家」という一般的観念が成立すると、「その家」を作っている当人の意図とは無関係に、「家」という一般的観念に照らして、完全であるとか不完全であるということができるようになる。

さらに、一般的観念は、人が作るものを超えて拡大され、自然物にまで拡張される。その結果「自然が過ちを犯してそれを不完全にした」と言えるようになる。

しかし、これは人間の「偏見」だとスピノザは断じる。自然はもともと人間の意図された目的によって生じているわけではないから。

このように、完全・不完全という言葉の意味の変遷を見ていくことを「言葉の読む」言葉の系譜学と呼ぶ。

一つの言葉はその背後に他の諸々の言葉と織りなす諸関係およびそれを支える系譜学をもっている。言葉を読むとは、この諸関係と系譜学を分析することであり、第四部序言の冒頭でスピノザが「完全」と「不完全」という言葉について行っているのはそのような分析に他ならない。[285]

良心と意識の区別がない

今回の範囲のテーマでもあるが、この良心と意識の同一性がかなり衝撃だった。なかなかイメージが持てなかったので、同じような例を考えて「心」という言葉を思い当たった。「良心」とも近いがこれでイメージが掴めるように思う。

まず、心という言葉は「心ある」「心無い」「心のこもった」といったように、心というものそのものが温かかったり、誠実であったり、思いやりがあったりといった、温度感を伴った言葉だ。

それが、心理学が生まれ、心を「心理」や「心的現象」「心的機構」などといったように扱うと、「心」はより中立的で、どのような方向性も持ちうるような、透明な器として見えてくる。心が一つの「メカニズム」として捉えられているように感じる。心と心理とが分離したように、良心と意識は分離したのかもしれない。

ここで、次のように考えることもできる。「心」という言葉は古い言葉で、それが心理学によって、より発達・進化し、洗練された「心理」が分化した。「心」は、心理学の発達以前の未熟な概念であり、「本来は」心理としてあるべきものが取りうる一つの状態に過ぎない。

つまり、これが、系譜学によって批判された歴史学的な捉え方だろう。歴史的に後に来るもののほうが洗練された、より真理に近いもので、そうやって解明された純粋な概念を、未分化な状態に適応するという方向の考え方になる。ここで言われる歴史学は、過去よりも現在、現在よりも未来の方が発展するという前提を持った「科学的」なアプローチということになる。

心理という言葉は、それまで心と言っていたものに対して、例えば社会的状況として、何らかのアプローチが必要になったときに、その状況とアプローチに応じて変質することで生み出された言葉に過ぎない。どちらかがどちらかよりも真に近かったり、洗練されているといった捉え方を、絶対的な方向性として導入しない。これが言葉の系譜学と呼ばれるものだろうか。

改めて「良心と意識の区別」を考えると、意識というものの中立的な透明性やメカニズム的な取り扱いが見えてくる。スピノザより後の哲学によって、中立化された機構としての意識概念が「良心」から抽出された。「良心」という言い方は、日本語では、温度感を伴った「心」というような意味合いなのかもしれない。

余談、動詞と名詞

このような中立化、透明化を感じるものとして、動詞と名詞の違いがある。

「意識する」という動詞として考えた場合、この言葉は具体的な動きというかシーンを形成する。例えば、学校のクラスで、それまではどうということのなかった誰かを「意識する」といったような状況だ。ここで、「意識する」という言葉は、それまで背景に溶け込んで同一化していたものから、なにか「それ」を切り出してくる、つまり「対象化する」といった意味合いを持っている。

ところが「意識」という名詞でイメージしようとすると、そのような具体性や動きは生み出しにくい。なにかよくわからないブラックボックス的な抽象概念として見えてくる。

「学ぶ」が「学び」として扱われた際に、動きの具体性を失って、普遍化し、何が起こっているのか分かりにくくなるようなことも同じだろう。

動詞と名詞の間に、抽象度の違いがあるのだと思う。あるいは、動詞から名詞化する際に、その言葉から「動き」というものが抽象されて濾し取られた後、元の泥臭い成分が除去されたということかもしれない。「動」詞と「名」詞。同じ意味とされていても、文法的要素が異なるだけで抽象度が変わるのは興味深い。

今回の範囲の後半はちょっと追いきれなかった。 大谷隆