2023-12-26 大谷隆

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第五章 契約の新しい概念ーー『神学・政治論』

3 政治的なもの

前回のあらすじ

スピノザが「エチカ」の執筆を中断して「神学・政治論」を執筆したことを重視して、本書における読解も中断し、「神学・政治論」を読解する。

スピノザの考える「神学」、つまり「神というものについて考える」とはどういうことか。

まず信仰とは神について何かを思うことであるが、単に何かを思うことではなく、それを知らないと神に従う気持ちが失われてしまうような内容を思うことである。[235-236]

スピノザの神学(聖書読解)の特徴は、奇跡を認めない。

スピノザは自然のうちには自然法則に逆らうようなことは何も起こらないと述べ、奇跡のような我々の理解力を超えた出来事からは、神の本質や神の存在はおろか、自然に関わる事柄も何一つ理解できないと断言[234]

スピノザの力点は、奇跡からは神の存在は理解できないというところにある。[242]

奇跡を認めてしまうと神を理解できなくなり、その結果「神に従う気持ちが失われる」とスピノザは考えている。このような、スピノザの神学はどのようになされるか。

信仰者一人一人が一つ一つの歴史物語を読むこと。[244]   そうした信仰箇条はむしろ一人一人が自分の理解力に合わせて自ら解釈しなければならないのだ。そういう解釈を通してこそ、その人は信仰箇条をいっそう無理なく、ためらいなく、完全に同意して守れるようになるし、したがってまた、神に全面的に同意して従うようになるのである。[244-245]

「自分の理解を超えている(奇跡)から、神を信仰する」のではなく、自分の理解力に合わせて聖書を読んで解釈することで神を理解し、神の信仰に繋がる。これがスピノザの神学(的なもの)となっている。

「3 政治的なもの」のまとめ。

ざっと流れをまとめてみました。数字は節の番号。

01 神学的なものと政治的なものの距離の近さ

スピノザの議論では、神学と政治は相似型になっている。『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus』の「・、-」で表現されているような結びつきがある。

  • 神学:神を巡る事柄についての考え方(宗教)。迷信ー歴史物語ー信仰
  • 政治:国家(社会)を巡る事柄についての考え方。法ー権利ー契約

政治的なものとは契約を論じることを意味する[247]

社会の前提に「契約」を設置するのは、ホッブズ、ルソーと同じではあるが。

02 なぜ権利と法が同じなのか

近代以前、法lexと権利jusは混同されていた。なぜなら「社会が落ち着いていたから」。両者に過不足がなく、法と権利は一致していた。

つまりjusの届く地点がlexの覆う領域の外にまで及ぶなどということが着想すらされない場合、社会は落ち着いている。この状態では、私は私にできるはずのことをしているし、していないことはできないはずだからである。[249]

人間は鳥のように飛ぶことはできない。「人間だって飛べるはずだ、飛ぶ権利がある」といった着想自体がない。人間は人間として、できるはずのことをし、できないことをとやかくいわない。こういった状態が「落ち着いている」。しかし、近代以降「私には〇〇できる権利がある。だから、できるようにすべきだ」といった「着想」が可能になっていく。こうして、jusとlexは乖離する。

03 能力としての権利

権利についてスピノザは次の二つを考える。

  • 自然の法:個物が自然においてもつ権利。この権利は、その個物の「能力」とも言い換えられる。「それを認められた者の能力と正確に一致している」。
  • 社会の法:社会の法制度によって認められた資格や自由。「それを認められた者の能力から独立して定められている」。

鳥が飛ぶことができるのは、自然法による権利(能力)によってであり、人間にはその権利(能力)はない。

この議論を、前節のアダムのエピソードの解釈に当てはめる。アダムが「その木の実を食べてはいけない」とされているにも関わらず食べた件は、自然の法ではなく、社会の法への抵触である。自然の法による禁止であれば、アダムにはその木を食べる能力が無いことになる。

04 自然権は放棄できるのか

能力としての権利は放棄できない。しかし、ホッブズは「各人が自らの意思で、自然権を放棄して、共通の権力を設立する契約を結ぶ」とした。社会の礎として、意思を前提し、なおかつその放棄を必要としている。

スピノザとしては、人間の能力そのものである自然権は放棄できず、自制しかできないはずである。このホッブズの前提の弱さを「スピノザは見逃さなかった」。ホッブズの考えた「意思で自然権を放棄する」ことによる契約は、スピノザ的には無理がある。

05 利益の計算

スピノザが考える(社会)契約の内容自体は平凡。

何事をも「理性の指図」で取り仕切ること。他人を害することは我慢すること。自分が嫌なことは人にもしないこと。他人の権利を自分の権利と同じように尊重すること。[255]

しかし、この内容を「どうやって守るか」について、「自然権を意思で放棄する」をホッブズとは異なるアプローチをする。

それを守ったほうが利益が大きいから   人々は日々、こうした「理性の指図」、理性による利益の計算を暗黙のうちに行いながら生きている。[255]

スピノザの解答は以上のような合理的なものとなる。理性の指図に従って、利益が高くなるように振る舞うことで、契約が日々更新され続ける。この合理的な判断によって「臣民の利益が最大化させるもの」が国家(至高の権力)となる。

06 民主制は強権を認める体制か

「至高の権力」は臣民の合意(臣民の利益の最大化)によって成立した民主的なものになるはずだが、その決定には絶対的に従う必要があることになる。このような強権を認めることになるのか。

原則としては次のようになる。「たとえ至高の権力が極めて理不尽なことを命令してきても、理性はそのような命令に従うことさえ命じる」[257]

強権を認める。ただし、臣民には権力を「更新しない」ことができる。よって、このような強権は、起こったとしても「ごく稀にしか起こりえない」。

このあたりから、「原則」や「ごく稀にしか、起こらない」「ごく稀には起こる」という、〈完全ではない〉理論の仕立てが現れてくる。興味が湧いてくる。

07 神との契約

「至高の権力」との契約と神との契約との整合性はどうなるのか。スピノザはこう考える。人間はまず、

1 自然状態

にある。それが、神との契約によって、

2a 宗教状態(神との契約)

になる。宗教状態では、神に服従する。神の教えを内面化した道徳心に従う。

08 契約の二重化

至高の権力との契約は、この宗教状態と並行して二重化される。

2b 社会状態(至高の権力との契約)

臣民の一人一人が神と契約しているのならばーーつまり一定の道徳的価値観を身につけているならばーー権力はそれを踏みにじるにあたっては相当な危険と損害を覚悟しなければならない。[260-261]   至高の権力を認める契約と神との契約が互いに互いを規定しあう関係である。[261]

至高の権力は、臣民を踏みにじることも可能だが、「相当な危険と損害を覚悟しなければならない」。この理路は、前述の「ごく稀にしか、起こらない」と同様の、小さいけれど完全に閉じているわけではない代替路を認めている。

なお、この二重化された権力構造は、日本の天皇制に関するイメージとも似ている。天皇には二つの支配的側面があった。統治権的支配(この土地を支配する権利があることで発生する支配)と主従制的支配(主人と従者の関係のような力の強弱による支配)。それによって、一時期、室町から江戸期にかけて、主従制的支配力を武家に奪われたにも関わらず、統治権的支配力によって天皇制は辛くも生きながらえることになった。

09 制度と計算に還元できない価値なるもの

スピノザの政治論の特徴として、

スピノザは政治秩序には宗教が必要であると考えている。[261]

ここで、國分はスピノザの議論の構造に注意を促す。その議論の構造とは、

そのような読み方(政治に宗教が必要ということは、近代国家以前の国家にしか当てはまらない時代制の限定がある、という読み方)は、スピノザの議論の構造そのものがもつ意味を捉え損ねている。スピノザが言っているのは、法制度や理性的計算だけでは政治秩序は作り出せないということである。政治秩序には、法制度や計算には還元できない何かが必要である。[262]

「構造そのものがもつ意味を捉え損ねている」ということは、文章内容よりも文法的に見たほうがわかりやすい。この文章の強調部分を文法的に見れば

「~だけでは、作り出せない(できない)」という構造を持っている。

この「~だけでは、~ない」という構文に似たタイプの記述は、すでに時折見られていた。

  • 起こったとしても「ごく稀にしか起こりえない」。→極まれには起こる。絶対に起こらないわけではない。
  • 相当な危険と損害を覚悟しなければならない。→危険と損害を覚悟すればできる。絶対にできないわけではない。

この構造の特徴を言い換えれば、主たるものがどれほど重要であろうとも、ごく稀な、例外的な、逆側の通路を考慮に入れる必要があるということになる。この、わずかな例外的状況を加味することの重要性こそを、スピノザは訴えている。これが「構造そのものがもつ意味」だろう。このことを國分は憲法や基本法の持つ「民主的な決定に基づこうとも決して否定されてはならない価値が書き込まれている」ことにも見る。民主制の法は、手続きさえ正当であればどのような法も成立しうるが、にも関わらず、法では否定できないものがあるということの重要性を言っている。

脱線1 還元

ところで、「Aだけではできない」ということを指して「Aだけに還元できない」という用語が使われる。逆に「Aだけでできる」といった、ある事象の原因が全てAだけになる場合に「還元できる」となる。「還元しきれない価値」という言い方がとてもおもしろく感じる。多くの場合は還元できるが、だからといってそれだけではない。

例えば、言語表現は、一般に「言葉にはできない」という言われ方をする。ある出来事を言葉で表現しても、それは「元の」出来事のすべてを余すところなく表したものではないということで、このことを理由に言語表現の不完全さや、「元の」出来事の優位性を主張することもできる(デリダの言う「音声中心主義」)。

しかし、これは同時に、言葉で表現されたものには、元の出来事に「還元しきれない価値」があるという言い方もできるかもしれない。言葉にしたものが、完全に元の出来事に還元できてしまった場合、むしろ、言葉の価値はどこにあるのか。これは言語に限らず、表現全般に関わっている問題だろう。表現に携わっている側が、日夜求めている価値は、実はこの「還元しきれない価値」かもしれない。

あるいはまた、「なぜこの本を読むのか」という問いが、「哲学を学びたいから」といった単一の「原因」に還元できないことも同じ領域にある。そもそも原因ー結果という単純な因果律では捉え残っている何かがある。

このことをスピノザと國分はすでに議論している。

一般に原因と結果は働きかけるものと働きかけられるものの関係として理解できる。そのように理解された時、原因と結果は二つの別の存在である。[156]

このような、原因と結果とが別の存在である場合にその原因は「他動原因」とされ、「内在原因」と区別される。

もしも、本を読む理由が「この本を読んでいると、面白くなってきたから」「読むことで新しい自分に変化していくのが楽しいから」「本を読むことで読むこと自体がより面白くなっていったから」といったタイプの「原因」は「内在原因」となるだろう。

スピノザと國分の議論を踏まえれば、この本を読む理由は、他動原因だけでは説明しきれず、また、内在原因だけでも説明しきれない。双方のタイプの複数の原因が、互いに連携し触発しあっているから、という言い方が、今のところ最も適切な答えになるだろうか。

10 歴史としての契約

スピノザの議論の構造を捉えた、権力構造についての國分の記述は、こうなる

契約の名の下に理解されるのは、どのようにして至高の権力が承認され続けてきているのかーーあるいは時には承認されなかったのかーーを説明する具体的な経緯であり、さらには、その間に人々が守ってきたーーあるいは時には破られたーー価値観そのものである。[263]

「あるいは時には」で接続された二つの異なる状態の重ね合わせとして、歴史と契約はある。この記述の強みは、当たり前に現実を描くことができる記法になっているということだろう。「あるいは時には」を許さない絶対的な記述で現実や歴史を記述することは困難である。

一方、絶対的な記述で可能になるのは「数学」や「物理」といった科学になる(これも現代の最先端ではどうかわからないが)。2+3は絶対に5であり、「時には4」になったり、「人(時代)によっては8が正解の場合もある」といったことはない。

スピノザの考える歴史としての契約は、更新的で二重化された契約である。「反復的」という言葉も使われているが、同じところを行ったり来たりしているわけではなく、その往復自体も一回性のものであるため、更新的の方がよいかと思う。

脱線2 二分法

二分法は、「AかBか」という考え方だが、このスピノザの構造は、「原則Aだが、ときにBでもある」という非二分法的視野(パースペクティヴ)を持っている。二分法的な視野では、「私はA」であれば、Bの立場から見る視野がなくなる。Aに閉じ込められてしまう。「私はAだが、Bということも(Bの人がいることも)わかる」という視野は、AにもBにも閉じ込められず、その両者が存在している場所全体を見渡す視野を持っている。これは、自分自身と他人自身とが共存している場所全体を見る視野である。「他人存在」が可能になるには、この、対自意識と対他意識の重ね合わせの場への視野が必要となる。

11 権力の限界

国家権力は市民に対してあらゆる手段を用いることができる。しかしだからといって、市民が「その人が自分独自の考えに基づいてそう決めている」こと自体の変更はできない。権力は他動原因にはなるが、内在原因にはならない。ここに原理的な限界がある。

12 言論の自由は奪おうにも奪えない

その国の歴史という具体的なものとしてしか、その国の社会もその未来もない。抽象的な「社会契約論(ホッブズ)」は存在しない。そのような抽象的な、一意の、決定的で絶対的な契約ではなく、(少なくとも)二重化された、その都度その都度のものである。

なぜ思想の統制を行ってはならないか。それが権力の自由にできるキャパシティを超えた目論見だからである。[268]

思想の統制が「できない」わけではないが、相当の危険や損害がある。なぜなら、そもそも権力の持つ限界を超えているから。

脱線3 文化の具体性

具体的でしか無い秩序、つまり、普遍的な秩序の限界を超えているということの例として、日本語の「うどん」を英語に翻訳できるか、という問題を思い起こす。うどんは果たして「japanese noodle」と云い得るのか。noodleという言葉の持つ普遍性が、食文化の個別性を越権しうると云い得るのであれば、うどんはまさしくjapanese noodleである(うどん=japanese noodle)。しかし、むしろ、うどんは「udon」としか云い得ないのではないか。そのような強い文化的個別性を持っているのではないか。

しかし同時に、興味深いことに、一方で、うどんは「麺」という、おそらくは中国大陸に由来する言葉で言い表すこともできるという言語的事実もある。

13 意思と契約

ホッブズやルソーの契約論には意思の概念が前提されている。しかしスピノザは「意思の概念に全く言及していない」。自然状態において意思の役割はないというのがスピノザの立場にある。意思は何らかの契約によって発生する権利を「みんな一緒の力や意志に基づいて決める」といったように、契約が成立し、法が存在している場合でしか、意思を問うことができない、とする。

14 パウロ『ローマ人への手紙』

契約以前の自然状態に、契約以後に発生する概念を持ち込むことを、パウロの『ローマ人への手紙』のテーゼによって批判する。「律法以前には罪は存在しない」。自然状態で罪はない。

スピノザの議論では、意思の問題を問うには契約が必要であった。今、執筆と読解を中断している「エチカ」が、意思を扱うのであれば、まず、契約とは何かを明らかにする必要がある。そのために、「エチカ」を中断し、『神学・政治論』を経由する必要があった。

以上