2023-11-28 大谷隆

範囲

第五章 契約の新しい概念ーー『神学・政治論』

1 『神学・政治論』の執筆 2 神学的なもの

執筆の中断と読解の中断

これまではあまり重視してこなかった各章の最初の節、スピノザのライフストーリーが描かれてきたこの節が、この章ではとても面白かった。

本書は『エチカ』執筆中断の事実を重視する。とはいえ、中断の動機を詮索したいのではない。(略)そうではなくて、スピノザが『エチカ』の執筆を中断したのに倣って、我々もここで、『エチカ』の読解を一時中断したいのである。そうすることで、少しでもこの事実の重みを実感したい。読者の皆さんにそのことの意味を想像していただく契機としたいのだ。[226]

読解を中断する。その事自体も面白いが、執筆と連動しているというのも、とても面白い。この読み方のために、これまで各章第一節ににあてられていたライフストーリーが生きてくる。各章第一節がなければ、ここで『神学・政治論』を経由する必然性は低い。スピノザの実存的生とともにする読み方で、現実のスピノザという一人の「私」の時間を重視しているように感じる。

國分はスピノザの人物像として「勇気」を導き出している。

勇気とは警戒心と大胆さを持ち合わせている人物こそ発揮できるものに他ならない。[231]

として、スピノザに警戒心と大胆さ、そして勇気があったことが大きな要素だとする。この本は「スピノザ論」であり、『エチカ』論ではないので、この主張はそれほど違和感が無いが、哲学の読解に、著者のライフストーリーや人物像を流れ込ませるのは、それほど当たり前のことではないように思う。一般に「哲学書」にとって、その哲学者の生い立ちや性格、人物像に関する記述は、論の中枢というよりは、「おまけ」的に扱われているように思う。

実際、第四章までは各第一節は、僕自身、そのように読んできた。しかし、この第五章に来て、俄然、スピノザの人物像が、その哲学的内容に干渉しだしている。國分は、スピノザが『神学・政治論』を書くに至った経緯を類推しているに過ぎない。しかし、この本がこれまでに周到に敷いてきたライフストーリーの軌道が力を持って、本流に接続されている。この書き方による説得力の持たせ方自体、とても興味深く思える。

スピノザに圧倒される

第二節「2 神学的なもの」の印象は、スピノザの凄さだ。

聖書という、おそらく世界で最も有名な書籍であり、極めて長期に渡って、数え切れないほどの専門家たちが精細に読んできた歴史的書物に対して、たった一人で全く斬新な読解を提示している。

当時のユダヤ人たちの間に、原因不明で自分たちの理解を超えていることや、他と比べて著しく抜きん出ているものを必ず神と結びつけようとする傾向があったことが分かってくる。[232]

通常の読み方では、まず神が存在し、その神によって引き起こされたものを奇跡としてきた。しかし、スピノザは逆向きに読み解く。自分たちの理解が超えている「神のような」出来事がまずあり、その「原因」として神が形成されていったという順序になる。どんな時代においても、自分たちの理解が及ばないことはある。つまりその「理解の及ばなさ」が神として祭り上げられていった。これが國分の言う「歴史的」な読み方だろう。現代において、このような読み方はそれほど特殊には思えないし、アカデミックな「歴史学」としては当然の態度とも言えるが、これを、言ってみれば「歴史学を含む科学全般の成立以前」の状況で読み、提示するのは並大抵のことではない。

もっとも、スピノザは、この自らの読み方を誇っているわけではなく、「理解の及ばなさ」が即ち神なのだとすれば、「我々は神を理解することは絶対にできないことになる」ということを強く警告している。

奇跡からは神の存在は理解できない。[242]

アダムの物語の読解もすごい。この物語も、世界で最も有名な物語かもしれない。にも関わらず、スピノザのような読み方は、今でもとても斬新に思える。

木の実を食すれば何らかの災が降り注ぐという法則は示されていたが、アダムが災いに巻き込まれることが必然的な法則として定められていたわけではなかった。[240]

もし、神が禁止していたならば、絶対にアダムは木の実を食べることはできない。できた以上は、神の意志だけでは説明がつかない。アダムという人間の行為がこの問題に関わっている。

「善を、アクの反対だからという理由ではなく、善であるからこそ行い、求めなければならないと、すなわち、善を善への愛から求めるべきであって、悪へのおそれから求めるべきではないと、神はアダムに命じたように思われる」[240]

善と悪を二分法で捉えるのではなく、善を善として捉える、このような思考そのものが難しい。聖書も善と悪との対置による二分法で読まれてきたということだろう。

「善いことを本当に理解し、愛しているからこそ善い行いをするならば、その人は自由は揺るぎない心で行為しているのである」[241]

そして、善を善として、それそのものとして、他との引き合いではなく、理解することが、「自由」に繋がるというのも、なんともすごいし、なにか大きな幸せに向かっていく気分がする。

読むことの「私」性

スピノザは、「私」の重大さをよく知っていたように思う。「私」のほうが「我々」よりも重大なのだという意識は、実存主義そのもので、時代を超えてしまっている。

理解とはあくまでも私的なものであるというスピノザの哲学的信念とも無関係ではないだろう。[245]

その結果、聖書を「自分で」読むことの重大性に結びつく。

信仰者一人一人が一つ一つの歴史物語を読むこと。それがスピノザの説く聖書との向き合い方である。自分の理解力に合わせて自分なりの仕方で歴史物語を読むとき、その物語は読む人に、読む人が自然に受け入れられる教えを与える。[244

その時点の自分に合わせて、自分なりに読む。そして、少しずつ変化していく。何かとても健全で強い信仰そのものを感じる。

以上