2023-08-02 大谷隆

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第三章 総合的方法の完成 ー『エチカ』第一部

『エチカ』は神から始まらない

『エチカ』は神から始まると思っていた。國分さんは、その間違いを明快に指摘しつつ、見事な整合性で『エチカ』第一部を読み解いてくれている。

問題1  デカルトの分析的方法との違いはあるのか

デカルトの分析的方法は、 1 まず結果の中にいる(分析的) 2 結果を分析して原因を得る(分析的) 3 その原因から結果を再構成する(総合的)

スピノザの総合的方法は 1 原因を認識する(総合的) 2 その原因から結果へ進む(総合的)

ただし、 0 準備する

準備とは何か。「分析」とはどう違うのか?

問題2 発生的定義は徹底できるか

『知性改善論』では、一般的な事物に対しては発生的定義には有効だが、神は同じようには定義できないとしていた。

最高完全者、すなわち総合的方法の出発点となる原理、要するに神は、また別の方法で定義されねばならないというのである。最高完全者の定義はそこからあらゆる特性が導き出せるようなものでなければならないという点でこそ発生的定義と性質を同じくするけれども、その定義は「一切の原因を排除しなければならない」。だとすれば、そこに、発生原因を含み込む発生的定義の入り込む余地はない。(略)  スピノザが神を発生的定義の対象から除外した理由はよく分かる。神は「創造されない事物」であるから、もしそれに発生原因があるとしたら、たしかにその原因が神に先行することになってしまう。[107]

この二つの問題を解決した『エチカ』冒頭

  • 神は定義六、定理一一で記述される。
  • 神の記述以前が「準備」に該当する。
  • 準備は、分析的方法ではなく「系譜学」でなされる。

『エチカ』における実体の系譜学は、実体が産出する様態から実体に遡っているのではない。また、あくまでも原因から結果へと進む総合的方法の出発点を獲得するための手続きであって、神の観念に至るやその役目を終え、前進的な証明の手続きへとバトンを渡すことになる。[142]

系譜学(ニーチェ、フーコー) 系譜学という言葉自体は知っていたが、今回始めて注目することができた。ネットで調べただけの知識での類推だが、こういうことだろうか。

(伝統的な)歴史学への批判として系譜学が見出された。歴史学は、真理としての起源を探求する。系譜学は、「真理」や「起源」が「捏造された」歴史(系譜)を見る。

AとBという二つの民族が争い、Bが滅亡した場合、その事実が歴史的に記録されるのは、必ずAやその末裔によってである。歴史が書かれた物である限り、書いた者の視点での歴史となる。歴史学自身は、「過去の事象を当該の時間軸の外側の視点で客観的に分析し判断しているのだ」と錯覚している。系譜学は、自らが歴史の当事者であることを自覚しつつ、自らがその系譜内の一つの視点に過ぎないことを恐れずに過去の事象を検証する、それしかできないのだから。ということだろうか。

「実体の系譜学」の意味は、神(実体)というものが、真理として正しく在るとして、その起源を探求する(分析する)、という方法論ではなく、どのようなものが神(実体)となりえたか(系譜)を記述する、ということだろうか。

具体的には、まず、ここでの定義は「名目的定義」であり、いわば語句説明である。神というものがどのようなものかを成立させていくためのものであり、結果(様態)を分析して「神の起源」に迫る「歴史学的」プロセスで出てくるものではない。

定義された語彙

  • 自己原因(一)
  • 有限と無限(二)
  • 実体(三)
  • 属性(四)
  • 様態(五)

定理は背理法、仮定、遡行である。ちなみに、背理法はそもそも、証明したい命題を偽と仮定して、矛盾を導くことで、命題が真であることを結論付ける方法なので、背理法と仮定はセットとも言える。

定理一 実体は本性上その変状に先立つ。

変状という言葉で意味しているもの自体が「実体の変状」であり、変状が実体に先立つはずがない。変状を「変化」のような意味合いで読めば自明で、変化は常に「何かの変化」であり、変化がその「何か」に先立つはずがないというようなことになる。定義された言葉の使用範囲を改めて定めるような印象。

準備ー系譜学とされている段階は、「最高完全者」というものが「どのような仕方で(副詞的)」存在するかを記述している。神という「もの」の名詞的存在を証明するのではない。

この系譜学により、浮かび上がってくるのが「自己原因」となる。これは、問題2の発生的定義の徹底にもなっている。

神は自らの原因であって、他からは産出されない。とはいえ、神もまた原因によって定義されている。[139]

定理一一で神がどのように存在するかが示された後は、全ての一般的な事物は神から導かれることになる。これが『エチカ』における証明となる。

同書において証明とは、定義あるいは観念からその対象の諸々の特質を導き出す作業を指す。[132]

として、見事な読解になっている。

神の存在証明

國分さんの文章の面白さは、丁寧に道を辿ってくれるところにある。その結果、本の目的であるスピノザへの興味はもちろん、途中の通りすがりにあたる場所への興味も引き出してくれる。前述の「系譜学」もその一つ。もう一つは、神の存在証明とその批判。

カントの存在論的証明批判

とても有名だけれど、きちんと考えたことがなかった。

まず、

存在論的証明とは、神は完全なのだからその完全性には存在も含まれていなければならない、したがって神は存在するというーートンチのようなーー証明である。[148]

これに対してカントの指摘は、

神が「完全である」ならば、「永遠である」とか「無限である」とか、神という事象について、その内容を示す述語を付すことはできるし、「神が完全である」ならばそれらは真であろう。だが、それがあるとかないとかいったことは、主語の事象内容とは独立しているのであって、「完全である」ような万能に見える述語であろうと、主語を存在させてしまうことはできないというのがカントの指摘である。[148]

「神は〇〇である」の〇〇に「永遠」「無限」「完全」といった、事象内容を入れることはできるが、「ある(存在する)」を入れると、「神はある(こと)である」というトートロジーになる。「ある(存在する)」は、レアールな(事象内容を示す)述語ではない。

よって、神の完全性の中に、(無造作に)「存在」を含めた証明は無効となる。仮に神が完全だという命題が成立したとしても、「存在する」こととは独立している(別問題である)。ここから「存在するとはどういうことか」という特別な問(存在論)が立ち上がる。

スピノザの神の「描写」

一方、スピノザの神の存在についての議論は、

神が自然としてここに存在していることを描写しているのである。[147]

スピノザはどこかに神が存在していると言っているのではなくて、我々がその一部であるところの自然が確かに存在しているということ、この事実そのものを神の観念によって説明したのである。〈こと〉そのものを本質と見なす考え方は、存在論的証明という伝統的な用語では説明しきれない新しさを持っている。『エチカ』における神の存在についての議論は、その存在の証明というよりもむしろその存在の描写であり、これは『デカルトの哲学原理』におけるコギトの存在の描写から一貫しているスピノザの哲学的な構えである。[149]

神の存在を証明するというよりも、神がどのように存在しているかを描写するというのが「スピノザの哲学的な構え」。

「なぜ在るのか」という問に、「そもそも何もない」と答えることは出来ない(例えば、この問もその答えも、そう答えるあなたも「在る」)。とすれば、この存在論的問に答えず、あるいは、「在るということそのものが神である」としている、ということで、これがカントの批判を躱しきれているかと言われると、微妙な気分になるが、批判の中心からはズレている気は確かにする。「説明しきれない新しさを持っている」というのはなかなか面白い言い方。

以上