2023-07-02 大谷隆

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第二章 準備の問題ーー『知性改善論』『短論文』

「近代初期」の様相

現代に生きる僕たちが当たり前で、疑うことすらしない前提として持っているものの多くが、実は、たかだか数百年前に誕生したということを知ると、いつも驚いて楽しくなる。僕の興味のポイントの一つ。

例えば、今、僕が、このように書いたり読んだり話したりしている現代日本語が、実は、せいぜい150年ほど前の明治時代に、特定の人々の言文一致運動によって作り出された近代の産物だということ(代表的には二葉亭四迷「浮雲」1887)。自分が当たり前に思っている、あるいは「思ってもみない」、意識すらしたことがないような、地面が崩れるような感じがする。

他に、近代以降に初めて可能になったと言われているもので、僕が衝撃を受けたものは、黙読、風景画などがある。中国の山水画は「四世紀には成立していた(ウィキペディア)」が、これは《風景》というよりは信仰の対象を描いていて、強いて言えば宗教画。

デカルト、スピノザは、まさに西洋近代を作り出した側に位置している。

自画像は近代初期に特定の画家によって「創始」されたもの

自画像は当時のオランダで発展したジャンルであり、レンブラントこそはこのジャンルの創始者であると言っても過言ではない。自画像というジャンルの勃興は近代的な自我の目覚めと関係している。その制作は自らを見つめてそれを客観化していく、ある種の弁証法的な過程を伴っているからである。[79]

近代以前は自画像がなかった、少なくともジャンルとして十分に領域化されていなかったということにまず驚く。「近代的な自我の目覚め」というのは、自分を対象化して見るということで、描画的には「鏡」に自分を「反射させて」見ることが必要だった。哲学的に言えば、自分というものは一体どういうものか、自分は何なのか、という「問」を発して、自分を「反省する」必要がある。この対象化された自分、背景的世界から「自立した自分」が、「近代的な自我」と呼ばれている。が、こういった説明以上に、「(今で言うような意味では)自画像というものがなかった」という歴史的事実の強さに驚く。

理性は個人の決断で支えなければならなかった

同様に、驚いたのは「理性」の立ち位置。スピノザ『エチカ』では、感情に対して理性が持ち上げられている。この感覚に、現代的には「理性ってそんなに良いものなのか」と違和感が生じるが、どうやら近代初期の事情はかなり違っているようだ。

近代初期においては理性はまだ確たる地位を獲得しておらず、決断によって支えなければすぐさまに崩れ去ってしまうほど弱々しいものだったというのである。[86]

この理性の地位の危うさを現代に置き換えれば、AIによる自動運転車に対する「疑念」のようなものだろうか。自動運転の方が人間が運転するより事故率が低いことが「データとして」示されたとしても、「最終的に人間がハンドルを握っていなくては」といった、自動運転への不信感が拭えない気分はどこかにある。また、事故を起こした場合に誰が責任を負うべきかという問題も、自動運転車の場合、運転者が存在しないので、車の所有者か、AIの製造者かといった問題が、議論として残っている。(余談。この議論が向かう「責任主体」はどこにも宛がなく、交通事故は天災のように扱われるようになるのではないかと個人的には思う。)

近代初期の理性は「決断が支えた」ということは、つまり、理性的であることを決断した本人が責任を追わなければならなかったようなことなのだろう。ガリレオ・ガリレイは地動説を唱え、裁判で有罪判決を受けたが、これは「地の方が動いている」という物理的事象の「解説」行為自体が、ガリレオ・ガリレイの責任とされたということなのではないか。もし地動説を唱えるのであれば、有罪判決がくだされるかもしれない自分の未来に対して「決断」が必要だった。

理性的に科学的法則を提唱するのに「決断が必要」などということは現代では想像しにくい。現代では、当たり前だが、「理性的」であることによって、むしろ個人への帰属ではなく、普遍的事実に還元される。このこと自体が、社会的に共有されている。それが近代社会ということでもある。

この近代初期の「理性」の立ち位置で「エチカ」を思い返すと、スピノザがあのような強い調子で理性を位置づけなければならなかった事情がわかる。

準備の問題

前章から予告されていた準備の問題。分析的方法は、結果から原因を分析する。一方、総合的方法は原因から結果へ進む。ただし、原因の認識の前に準備がいる。

準備とはあることをうまく行うために前もって支度することを言う。スピノザの目指す体系に即して言うなら、総合的方法の出発点となる原因の認識にたどり着いて、そこからうまく論述を進めていくための支度である。[88]

しかし、これには大きな問題がある。準備をしようとすると、その準備のための準備が必要になり、そのまた準備が必要になる。無限遡行が生じる。

これは、方法という言葉自体の問題で、方法を道具と捉えても(道具を作るための道具が必要)、標識と捉えても(標識を捉えるための標識が必要)、無限遡行は生じる。

デカルトは「明瞭判然」であることを「真」としたが、これは「標識」で、「それでは、明瞭判然とはどういうことか」という問が発生し、明瞭判然であるための何らかの標識(性質)を特定しなくてはならず、無限遡行する。

そこで「方法」という言葉に対して抱いている先入見を一度明るみに出す必要がある。(後の哲学でいう現象学的還元?。カッコに入れて、その言葉が持つ意味や価値を一旦保留する。)

我々には「方法」というとそれに従えば物事を進めることができるマニュアルのようなものを想像してしまう。つまり考えたり操ったりする素材に先だって与えられ、目の前の素材について特に自分で考えずとも、受身の姿勢のままで何事かを実現できるような、そのような手引のことだ。[96]

この手引的な「方法」は、手引がどのような内容であろうと必ず無限遡行する。手引きを得るための手引きが必要。一方で「無手勝流」つまり、反手引き的・無手引き的な方法である自己流もスピノザは否定する。そして、

然るべき出発点から然るべき順序で観念が導き出されていくならば、観念を獲得していく行為それ自体が、観念の獲得を指導し、制御していく、と。

真であることの保証は観念の獲得という行為そのものに内在している。観念が導かれていく「道」そのものが方法である。したがって、その道は観念の獲得の前には存在しない。道はただ観念を導き出す行為と一体のものとしてのみ存在する。[97]

ここまでの議論は、個人的にはよく分かる。 「道」は前にあるわけではなく、後ろにできるというイメージも違和感はない。しかし、「では、どうやってそれをするのか」というところで、僕ならば以下のような「方法」論になる。

  • 前に道はない以上、現時点、現在地で、自分が気になることをやってみる。
  • まだ対象として見いだせなくても、背景としてそれとはわからずに見えてはいるかもしれない。そして、それはすでになんとなく読み取れていて、予感できている可能性がある。
  • 導かれるべき目標物(対象)がなくても、漠然とした方向感(予感)で進むことができる。
  • 進んでみて上で、検証して、その結果、違ったらやりなおして別の方向へいく。試行錯誤する。

まとめてしまえば「対象(目的)化以前のあいまいな予感に誘われて、検証を積み重ね、試行錯誤していく」といった「方法」になる。しかし、実はこれ自体が「標識」、あるいは標識群になっているとも言える。あえて言えば、「標識」と言えるほどの「明瞭性のなさ」が別の価値を形成しているかもしれないが、一方、スピノザは、全くそうではない。スピノザは「最高完全者」を措定する。

「出来るだけ早くこうした完全者の認識へ到達することに専念しなければならない」[101]

出発点は全く曖昧さのない「最高」の「完全者」。「完全者」という言葉だけで、僕には無理筋に見えてしまう。「完全」「絶対」などは、すぐさま反射的に「完全なんてことがあるのか」「絶対なんてあるのか」と疑義を挟む醒めた意識がある。

スピノザの底力と神の存在証明。「存在」とは。

ここまで考えて、改めてスピノザの凄さを思うのだが、要するにスピノザは、このような言ってみればデカルト的な懐疑による「醒めた」疎外意識を問題にしているのではないか。「完全」や「絶対」を反射的に疑う意識もまた、デカルトの懐疑主義による近代的意識の成れの果てということではないか。

一方、スピノザにとって、最高完全者は、他に根拠を持たず存在している。文字通り「問答無用」「証明不要」で、在る。最高完全者を最高完全者以外でもって説明する理路がそもそもない。そして、この最高完全者を方法の「出発点に」組み入れている。

想像すると鳥肌が立つ。スピノザの在りもしないかもしれないものを信じる意志の強さのようなものに対しての鳥肌ではなく、そう言われれば、たしかに、そういった、無根拠な存在性の感触が、僕にも確かにあって、ただ、それに直接目を向けたことがこれまでなかっただけだ。鏡がなければ、自分の顔を見ることができないが、それでも、たとえ一度も鏡を見たことがなくても、自分には確かに顔が在るのを疑ってはいなかった。

「自分の存在」ということを直接対象として思惟すると(「不存在」「死]も含まれる)、「自分」と「存在」とを改めて捉え直させられてしまう。レンブラントはその「自分」を絵として自画像を作った。スピノザはその「存在」を神として「エチカ」を書いた。

國分さんの文章を読んでいると、國分さん的な探偵精神が呼び覚まされて楽しい。

以上