2023-05-23 大谷隆

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序章 哲学者の嗅覚 第一章 読む人としての哲学者ーー『デカルトの哲学原理』

動機

スピノザ「エチカ」を読んで、僕なりのスピノザ像を得ることができた。これは、著作を通してその人と直接出会って会話したような感触で、僕なりにスピノザはこんな人だという像がある。そのうえで、本書を読む僕なりの動機を考えてみる。動機はそもそも個人的なものであり、僕の動機は僕しか感受できない。なおかつ、意外なほどその後のプロセスへの影響が深いと思う。動機についていちいち考えるのは、僕には興味深いやり方。

國分功一郎さんの「スピノザ」をなぜ読みたいか。一つは、僕とは異なる「スピノザ」像を得たいというものがある。僕には見えていない側面が見えることで、より立体的に見えるのではと期待している。もう一つは、スピノザのことをどう捉えているのかを通して、國分さんと再会するということをしたいのだと思う。そもそも「エチカ」を読むきっかけになったのが、國分さんの「中動態の世界」を読んで面白かったからで、同書は様々な哲学者をひいて展開しているがとりわけスピノザに大きなウエイトが置かれていた。そうやって知ったスピノザに直接会いに行ってきた。そして戻ってきた。國分さんと、共通の知人、それもかなり重要な人物についての話をできるのは楽しいことではないだろうか。

國分さんらしい文章ー序章

その意味で、「序章 哲学者の嗅覚」は「中動態の世界」で読み慣れた懐かしさを感じる。スピノザとライプニッツの「政治的センス」を比較しつつ、自身の哲学者観を述べている部分がある。

哲学者とはいかなる人物であろうか。哲学者とは、部屋に閉じこもって真理の追求に勤しむだけの世間知らずではない。真理の追求が権力による恐るべき迫害をひき起こすこと、人々は必ずしも真理が追求されるのを望んでいないこと、そうしたことを十分に承知した上で真理の追究に取り組むのが哲学者である。[12-13]

ここで使われている語群、「真理」「追究」「権力」「迫害」「取り組む」といったものから、熱い反骨精神といったようなものが醸し出されている。また、文体としてみた場合にも、

スピノザは政治的嗅覚に優れた哲学者であった。彼は当局が「上」から行使する権力にも、民衆が隷属を望みつつ無知に基づいて行使する「下」からの権力にも敏感だっただが、世間に対してかくのごとき鋭い警戒心を常に働かせつつも、世捨て人となることはなかった。自らを迫害する社会を呪詛して怨恨の中に生きることもなかった。 それどころかスピノザは、世の中の人々がもっと自由に生きることを願って、哲学史に燦然と輝く『エチカ』という書物を完成させた。[13](強調は引用者)

やや時代がかった、講談師のようなドラマチックな調子の取り方からも何かがにじみ出ている。ともすればマッチョにも取れる、一途さと熱血さがある。このような文章から受ける印象と、著者が「スピノザ」をどのように捉えているのかという本書のテーマとの間には、何らかの関連があるのではないかと予想される。

読むということの受動と能動

第一章 読む人としての哲学者ー『デカルトの哲学原理』は4つの節で構成される。第一節は「1 スピノザの三つの名前」で、スピノザの複層的な出自をその名前を読み解きつつ、スピノザ像の台座として展開する。

スペイン語の姓(Spinoza)。ヘブライ語(Baruch)、ポルトガル語(Bento)、ラテン語(Benedictus)の名前。ユダヤ教からカトリックへの「改宗者」でありながら、密かにユダヤ教を信仰し続ける「マラーノ」の家系。もともとはポルトガルにいたが国外へ逃れ、フランスのナントからオランダのアムステルダムへ移った祖先。さらには、若い時期に複数の家族を立て続けに失ない、その上、ユダヤコミュニティからは破門、という複雑で曲がりくねった経緯がある。

その状況下でスピノザの哲学の源流はどのような場所だったのかが、第2節「2 スピノザ哲学の「源流」」で述べられる。

 スピノザには、自らが受け取ったいかなる知識をも批判的に検討し、そこに矛盾を見出すやその矛盾を手がかりにして整合的な解釈や考え方を作り出すことができる知性が備わっていた。[31]

既存の思想体系の中に潜在的には見出されるものの、それまで明るみに出されることのなかった構造を取り出すようにして、スピノザは「自らの」思想を構築した。[32]

複層的で複雑に絡み合った多くの思想体系の中で、それらから「影響」は受けつつも、いずれかの特定の原因への「還元」はされない。著者はそのスピノザの哲学を、「読む人」の思想、読む哲学者として捉えている。この、タイトルにも入っている「読む」という言葉を、國分さんはどういうイメージとしてもっているのか。

ある哲学体系への批判は、ほとんどの場合、その哲学体系が言葉にしていない諸前提への拒絶反応に由来するものだ。逆に、ある哲学体系を信奉するとは、その体系によって自身を支配されてしまうことである。スピノザがここでやっているのはそのどちらでもない。スピノザは読んでいる。受け入れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る。[42]

「読む」とは、批判ー拒絶するのでもなく、信奉ー支配されるのでもない有り様。受け入れつつも支配されない。難点に目をやりつつも体系の中に浸る。これは、「上」「下」の権力から迫害されながらも、「部屋に閉じこもる世間知らず」ではなく、その「世間」の中で「真理を追究する」と序章で述べていた著者の哲学者像とも重なる。

読むという言葉に込められているイメージは、書物からの情報や知識の摂取といった受動的な意味合いのみでは使われていない。また、部屋に閉じこもって自分だけの世界を愉しむといった隔離性や安全性もない。読むということがむしろ、絶え間ない軋轢の中に自らを置き続けながら「自らの」思想を構築するという危険に満ちた能動性がある。スピノザは、デカルト哲学を〈読む〉ことで、自身の哲学を構築して(書いて)いく。

デカルトとスピノザ

デカルト哲学との対比(差異)によって、スピノザ哲学は記述されている。これは國分さんが言うように脱構築、差異といったデリダ的な方法である。差異を見ていこう。

デカルトは、数学がもつような明証性こそが、真の知識の基準であると考えた。そのためには「純粋に精神のみ」の認識が必要だが、我々には先入見がある。だから懐疑に向かう。懐疑を方法として「選んだ」わけではなく、そうせざるを得ない「懐疑の泥沼」にハマっている状態。

1感覚も、2客観的事実も、3自身の身体も疑い、さらには「2+3=5」のような4普遍的な概念すらも、「神に騙されているかもしれない」という懐疑の泥沼の中で、たとえ騙されていたとしても「疑っている私自身」は存在するところへデカルトはたどり着く。

「私は疑う、私は考える。故に私は存在する」

これを第一の真理とした。

一方、スピノザは、このプロセスをそのまま追いつつも、デカルトのたどり着いた最終地点を通り越していく。

  1. コギト命題は第一真理であり、いかなる命題も前提していない、はず。
  2. しかし「故に」という接続詞がある。
  3. これは三段論法のうちの、後段2つであり、第一段が隠されている。
  4. だから書き換える。

「私は考えつつ存在する」

デカルトは数学的明証性を基準にした。つまり命題は「証明する」ものであった。しかし、スピノザは命題を「描写する」ものに変更している。デカルトの数学的明証性に対して、スピノザは、文章的描写性とも言うべきものを基準にしているのかもしれない。文章的というのは、読むこと、書くことの領域である。

デカルトが疑うことから逃れられず、どうにかして自らを説得しようとしていたのに対し、スピノザは疑っていない。

各々の人は自分が考えながら存在していることを確実に知覚しているのであって、そのことは誰も疑い得ない[45]

この違いを指して、國分は「思想以前にある態度」の違いとしている。思想そのものとしてはデカルト思想の中に侵入しているにも関わらず、スピノザはデカルトとは異なった態度で、デカルトの思想世界内を生きている。

以下、その他、デカルトとスピノザの差異について、いくつかまとめた。

分析的方法と総合的方法

デカルトとスピノザの違いとして、いくつかのトピックがある。大きなものは、方法の違いである。分析的方法とは、結果を分析あるいは分解して原因に至るもの。結果から原因に遡る。総合的方法とは、原因あるいは原理を提示した上で、結果へと向かう。

デカルトが分析的方法を採用する理由は、

我々はまず結果の中にいる。だから、時系列の観点からすれば、我々が最初に辿るのは分析的方法の順序である。[55]

となる。スピノザとの違いを考えるとこういうことではないか。

デカルト

  1. まず結果の中にいる。【分析的】
  2. 結果を分析して原因を得る。【分析的】
  3. その原因から結果を再構成する。【総合的】

スピノザ

  1. まず原因を認識する。【総合的】
  2. その原因から結果へ進む。【総合的】 ただし、「0. 準備がいる」。

この図式ではスピノザの「準備」次第では、デカルトの方法と同じにもなりかねない。これはなかなか微妙な違い。今後述べられるはずの詳細が興味深い。

神の存在証明

もう一つ大きなトピックとして、神の問題がある。 デカルトは、自分を騙すものとして「神の存在」を証明しようとする。スピノザは、神のなんたるかを把握すること(神の観念の形成)が第一で、それができればほとんど自動的に神の存在は証明されるとする。

真空の否定、偶然の否定

第3節の形而上学(メタフィシカ)の領域だったが、第4節は物理学(フィシカ)。真空と偶然が問題になる。ここでは、スピノザはデカルトに同意している。

真空の否定は、近接作用論の立場になる。近接作用とは「物体というのはそれが触れているものの影響のみを受けている、とする描像・とらえ方・仮説である。(ウィキペディア)」。遠隔作用論(ニュートン力学)は現代では退けられている。

例えば「万有引力の法則」では、2つの物体がどれだけ離れていても「無限の速さで」引力が伝播することになる。一般相対性理論では「重力場の変化の伝播は光の速度を超えない」。ニュートン力学は、一般相対性理論の近似解として理解されている。

近接作用論を採用したり、偶然を否定し全ては必然であるとする、といったスピノザ哲学は、國分さんが「好みそうな」雰囲気がある。