2024年3月14日 大谷隆

範囲

第Ⅰ部 身体

Ⅱ 身体の経験と古典的心理学

〔自己の身体の恒存性〕

〔「二重感覚」、情感的対象としての身体、「運動諸感覚」〕

〔現象に復帰せざるをえない心理学〕

〔自己の身体の恒存性〕

生理学においても心理学においても、身体は対象として扱われてきた。しかし、その説明は不十分なものであった。前章では幻像肢において、「心的なもの」と「生理的なもの」のどちらかだけでは説明がつかないことを指摘した。メルロ・ポンティは、そもそも両者を区分している分類自体が完全なものではなく、精神と身体は完全には分離しきれないことによって「互いに絡み合うことが可能」としている。

本章では、古典的心理学において自己の身体がどのように記述されてきたかを見ることで、古典心理学そのものの限界を示し、「現象へ復帰せざるを得ない」現代的心理学のプロセスへの開始地点を定める。

古典的心理学における自己の身体の記述はすでに、対象のあり方とは両立しない「諸特徴」をこれに認めていた。

古典的心理学における自己の身体の「諸特徴」が、すでに対象としては扱うことができないものを記述している。ここでは4点が挙がっている。

1 対象は目をそらせるが自己の身体は絶えず知覚される

対象ー物の恒存性と自己の身体の恒存性には違いがある。

対象の恒存性

とりわけ対象は私の視野から遠ざけられることができ、極限においては視野から消え失せることもかのうであるという限りにおいて、初めて対象といえるのである。[164]

自己の身体の恒存性

身体は再現のない探索の極限にあるのではなく、探索を拒み、私に対してつねに同じ視覚のもとに現れる。その恒存は世界に属する恒存ではなくて、私の側の恒存である。[164]

私の身体がいつも私の傍にあり、いつも私にとって現存している事実は、決してそれがほんとうに私の前にあることはなく、私の視線のもとにその姿を繰り広げることもできず、どこまでも私のすべての知覚の欄外にとどまり、私と共にある[164]

自己の身体は常に私と共にある。この恒存性が、対象の見え隠れする恒存性の基礎となっている。つまり、客観的対象の恒存性が、自己の身体の恒存性によって、下支えされている。私の身体のパースペクティヴが、対象のそれの特殊なパースペクティヴなのではなく、対象のパースペクティヴ的な提示ということ自体、私の身体の恒存性によって、初めて理解される。

つまり、自己の身体は「対象のうちの特殊なもの」なのではなく、対象というもの自体を成立させる土台ということになる。

2「二重感覚」

「二重感覚」は「ダブルタッチ」(新生児が指を口に入れたり、自分の体を触ったりすること)のことだろうか。発達心理学的では、ダブルタッチは自己の身体とそれ以外を区別することを学ぶためと説明される。

私は今は触れられている手を、やがては触れる手となるその同じ手として認知することができる[168]

つまりそれは「一種の反省」の下ごしらえをしているわけだ。[168]

対象ー物は「反省」しない。つまり、自分を省みることをしない。しかし、自己の身体は自分を省みる、あるいは自分を省みることによって、それを自己の身体とする。

3情感的対象としての身体

足が痛むのは、

足を引き裂く釘と同じ資格で、ただいっそう近い、苦痛の原因である[169]

わけではない。つまり、「私の足が私に痛い思いをさせる」のではない。

苦痛そのものがその場所を指示するのであり、苦痛は「痛い空間」を構成している。[169]

「私の足に痛みがある」のである。

私の足と、その足を傷つけた釘(対象ー物)とは、区別されている。これを古典的心理学は、身体は情感的対象である、つまり、情感を持つ特殊な対象という説明をする。しかし、むしろ、足の痛みは、釘という対象を自己の身体の外側に位置させるもので、足は釘のような類のものではないことを心理学者はすでに知っていた。

4「運動感覚」

対象ー物を、A地点からB地点に移動するようには、われわれは自分の腕を運動させない。

私の身体は対象をある場所で捉えて他の場所に導く。しかし、私は身体を直接動かすのである。私は客観的空間のある一点に身体を見出して、それを別の一点に運ぶのではない。身体を探す必要はない。身体はすでに私と共にある。[170]

これを古典心理学は、自己の身体には「運動感覚がある」という言い方をして、つまり、自己の身体は運動感覚がある対象ー物であるということになっているのだろう。

パソコンに初めて触った人は、マウス操作する際に、「カーソル」を対象ー物として、A地点からB地点に移動させようとする。しかし、慣れてくると「カーソル」はまるで自分の指先の延長のように「探す必要はなく」「直接動かす」ことができるようになる。マウスを経由してカーソルまで自己の身体の一部となったと言い得る状態になる。ところで、これと同様に、我々は人が服を着ていて「身体表面」を(一度も)見ていなくても、その人を見ていると思うことができる。服も身体に含めているかのように認識している。

〔現象に復帰せざるをえない心理学〕

以上のように、対象として、自己の身体は扱えないという材料は揃っているのに、なぜ古典的心理学は、自己の身体を対象として見たのか。それは、心理学が科学だからである。

科学は、観察において観察者の立場に属するものと絶対的対象の特性たるものを、区別することが可能であると信じており、その限りにおいて非個人的な思惟に準拠していたわけであるが、心理学者たちも自然の歩みに従ってこの見地に立っていたので、以上のような結果になったのである。[171]   生ける身体にとっては、なるほど自己の身体は、あらゆる対象から異なるものであろうとも、心理学者の立場なき思惟にとっては、生ける主体の経験もまた、それはそれで一つの対象となり、存在の新しい定義を要求するどころか、一般的存在の中に置かれていたのである。[171]

科学は「非個人的」な思惟、言い換えれば普遍的な観点であって、そこから見れば、「自己の身体」も、心的事実として対象にできる、ということになる。普遍的視点から見れば「自己の身体」も一つの客観と見做せる。

しかし、心理学は物理学や化学とは異なる点がある。

心理学者は原理的に彼自身、彼が問題にするこの事実だったからである。彼が自分から離れて客観的に研究しようとするこの身体の表象、この魔術的な経験は、実は彼自身だったのであり、彼はこれを考察すると同時にこれを生きていたのである[173]

彼は彼自身を研究していた。ということは、研究対象を調べていくことでわかっていくことを、彼は最初からすでに所有していることになる。このあたりは読んでいてとてもワクワクする。

それについてやがていわれるであろうことは、すべていわれる前にすでにそれがおこなっていたのであり、心理学者の存在は、自己自身について、等の心理学者よりもよく承知していたのである。   科学でいうところにしたがって彼に生起したこと、生起していることは、何一つとして彼にとって全く見ず知らずのことではなかったのである。[174]

では、心理学者が調べている「心的事実」とは、どういうことになるのか。「未知の事実を明らかにする」という場合、この事実は、我々の外側にあるはずだが、そうなってはいない。となると、事実という概念自体も変容することになる。ここが今回の範囲で一番おもしろかった。

さまざまな「特徴」をもった事実としての心理現象は、もはや客観的な時間と外的世界における出来事ではなく、われわれが内部から触れている出来事であり、われわれ自身がその持続的な遂行であり源泉なのである。[174]

もうここでは「客観的事実」という言い方ができない。その出来事自体を、我々の「心理現象」が「事実」としているという構造になる。この構造は、「客観的世界」に対する「世界における(への)存在」の世界と同じ構造になっている。ここまでくれば現象学的な心理学まではあと一歩、のはずだ。