2024年2月29日 大谷隆

範囲

第Ⅰ部 身体

Ⅰ 客体としての身体と機械論的生理学

〔幻像肢の両義性〕

〔「器質性抑圧」と生得的コンプレックスとしての身体〕

〔幻像肢の両義性〕

幻像肢は腕の表象ではなくて、腕そのものの両価値的な(ambivalent)現前なのである。[148-149]

幻像肢は「腕」の表象ではなく、腕が「存在したりしなかったりする」ことの現前で、これはそもそも、腕というものに対するはっきりとした知覚を持っていなくても、我々は腕を動かすことができることからきている。

正常な人と同じように、自分の身体の明瞭な部分部分まではっきりした知覚をもつ必要がないからである。[148]

言い換えれば

はっきりと態度を決める措定的意識の水準において生ずるのではない。[149]

つまり、「現存と不在との中間のない客観的世界のカテゴリー[147]」ではなく、そこから逸脱して幻像肢は語られなければならない。

それはどのようにかといえば「世界における(への)存在」の観点である。この観点に立てば容易に理解される。

われわれのうちにあって切断の事実や欠陥の存在を否認するものは自然的であるとともに相互人間的なある世界に参加している「我」である。[149]

客観的世界(無人称)の観点には「我(人称)」は立たないが、「世界における(への)存在」には「我」がある。「我」は次のようなことが可能である。

われわれをわれわれの仕事や関心事や状況やなじみ深い範囲のなかに投げ入れる自然な運動を妨げているものを、ひそかに否定することにほかならない。[149]

例えば、本を集中して読んでいると、周りの音が聞こえなくなる。周りの音は客観的には存在しているはずだが、集中している私は、それを無意識的に排除(否定)する。周りの音は、私の状態によって存在したりしなかったりしている。

この周りの音のような「対象」は、まず、外在するものとして私に現れるが、一方で、私のうちに何かしらを喚起する限りにおいてのみ、私にとって存在する。このような二つの存在様式が層になっている。この二つの両義的な知の層は、身体としては、現実の身体と習慣的身体という層に対応する。

最近、アラタが字を書き始めた。最初は、お手本の字をなぞっていく。この時点では、字というよりも図である。何度か描いているうちに、習慣化していく。そうすると、もう、お手本の図を目で見ながらなぞるというよりは、ある構造を持った一つの記号を習慣的動作によって書くことができるようになる。これが文字で、この際、文字の形としての「正しさ」を保証するものとして「書き順」が寄与している。

この図と文字の違いは、図が「我」の描いたものであるのに対して、文字は誰が書いても同じ、その文字としての共通的な記号性を持っていることである。

手で操作さるべきものが、現実に私が操作するものではなくなって、一般にひとが操作しうるものとなり、私にとっての操作さるべきものではなくなって、いわば操作さるべきもの自体となった[151]

文字は「そう書かれるべきもの」にまで普遍化された図のことである。

〔「器質性抑圧」と生得的コンプレックスとしての身体〕

幻像肢の両義性は、精神分析学の抑圧と同じものである。

精神分析学でいう抑圧とは、人がある道ーー例えば恋愛、立身出世、仕事などーーに足を踏み入れながら、その途上で、ある障害にぶつかり、そこで障害物を取り除く力もなければ企てを断念する決心もつかないで、この試みの中に閉じ込められ、心のなかでこの試みを繰り返すために無際限にその力を使う、ということ[151]

人は、往時のうまくいかなかった恋愛にとどまり続けてしまう。その現在は、すでに不可能な未来に向かい続けてしまう。人は「あの時、ああしていれば」と思うことをやめることができない。

過去はいつでもわれわれの現在の判断を拒み、過去そのものの内部の明証性のうちに閉じこもることができる。私が過去をかつての現在と考える限り、過去がこうするのは、必然的でさえある。すべての現在はわれわれの生を定めることを望みうるのであって、まさにこの能力こそそれを現在たらしめるものなのである。[155]

幻像肢は、したがって、抑圧された経験と同様、過去となりきる決心のつかない往時の現在なのである。[156]

身体(corpus)という一見、生理学的なものが、抑圧という心理学的な(精神分析学的な)ものと同じ事情をかかえている。身体は心理学的にも語りうるし、心理的なものが身体の生理学的事情に誘発されないわけではない。

ここから幻像肢という現象から「心的なもの」と「生理的なもの」の関係を説明する。そのために、これまでに立てられた幻像肢にまつわる問題を解いていく。

1 なぜ記憶が幻像肢を出現させるのか?

生理的な感覚が、記憶という心的なものによって出現するのはなぜか。

a. まず、幻像肢は想起された表象ではない。心のなかで思い起こされたものではない。患者にとっては現に今もあるものである。

b. また、腕のイメージの錯誤でもない。腕のイメージが錯覚的に残存部分の先に出現しているわけではない。

そうではなくて、過去の「あの腕」が、患者にとって「現在の身体につきまといながら、それと一つになることはない」という状態である。言い換えれば「抑圧された経験と同様、過去となりきる決心の付かない、往時の現在である」。

2 なぜ情動が幻像肢の起源になりうるのか?

情動をかきたてられるということは、面と立ち向かうこともできず、さりとて立ち去りたくもないようなある状況のうちに拘束されていると感ずることである。[157]

まさに「抑圧の状況にあると感ずること=情動を掻き立てられること」で、過去になりきらないことで現在を主張する幻像肢を生み出しているから。

3 なぜ刺激を脳髄に伝達する神経の切断が幻像肢を消滅せしめるのか?[157]

この問題が一番の難題で、この問いに対するメルロ・ポンティの答え方がなかなか理解できなかったが、とりあえず現在の理解を書いておく。かなり自信がないので、コメントをぜひください。

切断された肢体を実存の回路のなかに保持するするのは、その残存部分から来る興奮である。[157]

残存部分からの興奮は、腕が存在するから発生するものではなく、腕が無くてもその腕を欲したり求めたりする。これによって、残存部分の興奮が幻像の余地を作ることになる。

そもそも、興奮という言葉は、それがあるから生ずるというよりは、それが無いがゆえに求めるという意味合いがある。現前と不在とをまたぐことを前提としたものである。

つまり、腕がなくなっていても、腕を動かそうとしてしまうような興奮は発生する。しかし、この興奮が脳へ伝達されなくなれば、幻像肢を下支えする身体全体の連携が消えることになる?

それゆえ?、問題3は、次のような問題に書き換えることができる。

3a われわれの実存の全体的態度たる欠陥の否認が自己を実現するために、感覚ー運動回路という甚だ特殊な様相を必要とするのはなぜか?[158]

3b またいっさいの反射にその意味を与え、その限りではこれを基礎づけている、われわれの「世界における(への)存在」が、それにもかかわらずこれらの反射に身を委ね、ついにはこれらに依存するようになるのはなぜか?[158]

もともとは、記憶や情動によって出現するというような、ほとんど「心的な」現象である幻像肢だが、にもかかわらず、なぜ、感覚ー運動回路などという「生理的な」ものの影響を受けるのかという問いなのだが、幻像肢の現象に限らず、身体というものが「心的に」だけで説明可能にならず、相変わらず「感覚ー運動回路」や「反射」といった「生理的なもの」を必要とするのはなぜかという一般化された問いになる。

これに対して、メルロ・ポンティは「もしも、完全に心的であったとすればどうなるか」という答え方をしているように読める。その場合、つまり

動物がそのなかでいわば我を忘れて生きる融合的な環境の素地のなかに人間が閉じ込められるべきではなくて、いっさいの環境の共通の根拠として、またあらゆる行動の舞台として、一つの世界を意識すべきであるなら、

人間が生理的なだけの身体に閉じ込めらるのではなくて、心的に世界というものを意識すべきであるというなら、

人間自身と彼の行動を喚起するものとの間にある距離が立てられなくてはならない。つまりマールブランシュがいったように、外部の刺激はひたすら「遠慮」しながら初めて彼に触れることが許される、という風でなくてはならない。[158]

こういうことだろうか。もし、感覚ー運動回路などという「生理的な」ものの影響を受けないのだとすれば、我々は次のような生になるのではないか。

私はモンスターの攻撃でダメージを受けた。傷ついた腕からは出血している。包帯などで止血しなければ、以後も継続的なダメージが発生する。

私の目の前には、この村の宝がある。これを盗めば村の私への評価値が下がり、村人たちは、私に敵対する。しかし、宝は手に入る。

このような、ゲームの主人公を操るかのような「生」を生きることになるのではないか。

ゲームの主人公が直面している「外部の刺激(例えば、モンスターの攻撃、腕へのダメージ、村からの評価)」は、直接にはプレイヤーである私を痛めつけず、そこには距離がある。「外部の刺激」は「遠慮」しながら私に接する。

しかしもちろん、我々の生はこのようなものではない。少なくとも、このような生が、例えば「業務において」など、一時的に発生することがあったとしても、常にそうであるわけではない。もしも、このような「生理的なもの」から切り離されたような生に完全に移行して戻ることがないということであれば、それは、

その時どきの状況がそれぞれ彼にとって存在の総体であって、これに対するこの応答がまたそれぞれ彼の実践の場の全体を占め尽くす、というようなことがなくならなくてはならない。

ことになる。

これらの応答の作成が彼の実存の中心でおこなわれるのではなく、周辺においておこなわれ、応答の度ごとにいちいち独特の態度をとる必要がもはやないように、各種の応答が一般的な形で最終的に準備されているのでなければならない。

そのような生が可能なのは、例えばゲームのように、何をすればどうなるか(止血すれば継続ダメージが消える等)が「準備されている」必要がある。

人間を原理的にその環境から解き放ち環境を眺めることを得しめる精神的実践的空間を人間が獲得することができるのは、彼が自発性の一部を放棄し、安定した器官と既成の回路とによって、世界に参加することによってなのである。

そのようなゲーム的な生を生きることができるのは、自ら世界というものをとらえていくような「自発性」を放棄し、「世界はあらかじめそのようにできている」必要があり、その「できあがった世界」に「安定した器官と既成の回路」によって参加することで可能になる。

習慣というものは単に繰り返すものというよりは、その行為によって起こる結果が予め決まっているものというニュアンスがある。歯磨きの習慣は、それをすれば何が起こるかわからないようなものではなく、歯が磨かれて健康によいという結果が「準備されている」から習慣として成立している。

われわれは、ゲームのような生を生きる瞬間もあるし、生身の生を生きる時間もある。前者は、習慣的身体として、客観的に存在する宇宙を(理性的に)生きることであり、後者は、現実の身体として、いちいち独特の態度をとりながら、自らそれに向かっていく世界を生きることである。我々はこの二つを往復している。

具体的な人間とは、有機性に結び合わされた精神活動などではない。ある時は自己を身体としてあるにまかせ、またある時は人格的な行為に向う、実存の往復運動なのである。[160]

「心的なもの」と「生理的なもの」とが結び合わされているその仕方は、そもそも、この二つがまったくことなるカテゴリーに分離されていて、それが「不可解な出会い」や「衝突」をしているわけではなく、そもそも、この二つが完全に分離しきれないことによって、「互いに絡みあうことが可能なのである」。

以上