2024年2月1日 大谷隆

範囲

第Ⅰ部 身体

Ⅰ 客体としての身体と機械論的生理学

〔神経生理学そのものが因果的思惟を超出する〕

〔幻像肢の現象、生理学的説明も心理学的説明も等しく不十分である〕

〔「心的なもの」と「生理的なもの」との間の実存〕

〔神経生理学そのものが因果的思惟を超出する〕

前回の範囲で、世界と宇宙という用語が対立的に定義された。

全き意味における対象の措定は、知覚的経験とさまざまな地平の総合とを踏み越える、ーー宇宙、つまり相互的に規定された諸関係からなる、完成した、顕在的な総体の概念が、世界、つまり相互的な含蓄の関係からなる、開いた、無限定な多様性の概念を踏み越えるのと同様である。[133]

宇宙と世界には、まず、相互的に「規定された」諸関係と相互的な「含蓄の」関係という相違がある。含蓄は「含み蓄える」ということなので、それ自身との(における)関係であり、規定は「きまりで定められた」なので、それ自身とは異なる別のものによる外的な関係となる。

それをこの節の冒頭は、取り出している。

客体の定義は、すでに見たように、それが相互外在的に存するということ、したがって、その諸部分の間にも、それ自身と他の客体との間にも、外的な機械的な関係しか容れる余地がないということである。[136]

それ自身は、多くの諸部分に分解され、それらすらも、外的な関係しかないのが「客体」の論理となる。自分自身の身体すら対象化し「部品の集合体」として見る生理学はこの相互外在的な在り方に基づいている。

相互外在的な客体では、関係する他の客体(内部部品も)は、「別の存在」であり、刺激として「伝わる」ことで初めて関係する。伝わらなければ、関係が無い。

しかし、現代の神経生理学の知見は、これでは説明がつかない現象を発見している。

生理学的な意味での「感覚」は、別の客体からある刺激が発せられ、その刺激を受容する物体に伝わることで発生する。例えば、色という刺激は色を受容する感覚受容体が受け取る。温熱の刺激は温熱を受容する感覚受容体が受け取る。といったようなモデルをとる。

しかし、実験で得られているのは、そのような仕組みでは説明できない現象である。 例えば色彩は、赤なら赤の受容体があり、青なら青の受容体があって、その混合で色彩が得られるわけではなく、「一様に、例えば色彩の感受性が崩れてゆく」。

同様に、触覚の非表皮性の傷害にあっては、なるほどある内容(温感)が特に脆弱で、一番先に消失するのであるが、といっても、これはこの患者において破壊されている特定の領域が、暑さ冷たさを感じる役目をしているということではない。なぜなら十分の広がりをもった刺激物をあてがうなら、この特有の感覚が回復するからである。[137-138]

神経生理学的事実が相互外在的な関係では説明がつかないということになる。

ではどのようにして、有機体は刺激を受容しているのか。

刺激の受容における有機体の機能は、ある興奮の形態をいわば「理解する」(concevoir「はらむ」)ことである。この「精神ー物理的な出来事」は、したがってもはや「世界内部の」因果性の型のものではない。脳髄は「形態付与」の場所となる。「形態付与」の作用は皮質的段階に至る前でもすでに見られ、神経系のはじまりからして刺激と有機体との間の諸関係を縺れさせるのである。興奮がこれから惹起するであろう知覚に、興奮を類似せしめるところの、神経管を横断する諸機能によって、この興奮は捉えられ、組織し直される。[139]

刺激に対して、刺激が伝わるより前に、その刺激によって起こる興奮を予測するような、それがどのような興奮となるかという「形態」を先に「与え」ておく。これによって、その刺激をその感覚として結び合わせる。

相互外在的な、刺激が伝わる前には何も生じないというような「第三人称的な一連の過程」ではなく、

私がこれをいいあてるとすれば、相互外在的な諸部分からなる客体としての身体を捨てて、私が現に体験しているような身体に赴くことによってである。例えば、私の手が刺激に先まわりしてこれから知覚しようとする形態をみずから素描しながら、それが触れる対象の周囲をかこむ仕種を思い起こすことによってなのである。[140]

「私が赴く」こと、「私の手が先回りして」「形態を素描し」た上で、その刺激はその感覚となる。

他人の背中を指で軽くつついて「蜂だ!」と叫ぶと、つつかれたほうは蜂にさされたかのような感覚を覚え「痛い!」と叫ぶ。この錯覚?は、感覚する側の知覚の「先回り」を裏切る(騙す)ことで生じている。

〔幻像肢の現象、生理学的説明も心理学的説明も等しく不十分である〕

幻像肢の現象も、生理学的説明だけでも、心理学的説明だけでも不十分である。

「存在しない肢からの感覚」つまり「存在しない感覚受容体が受容した感覚」というのがすでに客体の関係では矛盾している。一方で、心理学的説明も以下の事実から不十分である。

いかなる心理学的説明も、脳髄に向かう感覚導体の切断が幻像肢を消失せしめるという事実を、無視することは許されない。[142]

感覚導体を切断すればその感覚が無くなることを心理学では説明がつかない。

メルロ・ポンティは幻像肢の現象で、両者を批判しているが、その批判はどちらかを捨てればよいのではなく、また、どちらも捨てればよいというのでもなく、どちらかだけでは説明がつかないものである。よって両者が、現象の説明に共同で「参加」できる「共通の場が必要」だと言っている。

この共通の場は、従来は存在しないとされていた。つまり、空間のうちにある、延長の様態の「生理的事実」といずこにも位置をもたない、思惟の様態の「心的事実」である。長い西洋の考え方の中で、そもそも、精神と身体という二分法によって、それぞれの物事の捉え方の土台自体が分離されてきていたからである。

メルロ・ポンティは、この「両者の出会いを取りもつ方法を見出し」「共通の場において統合」することを提示しようとしている。それはどのような「場」か。

〔「心的なもの」と「生理的なもの」との間の実存〕

この節で二つの例が挙げられている。肢が切断された昆虫と反射だが、以前読んだときには、それぞれの例の意味はわかるものの、この二つの位置関係というか、この節の流れの中の位置付けが不明だった。今回は、それを試みる。

まず、肢が切断された昆虫について

昆虫が本能的行動において切断された肢のかわりに健全な肢を使うのは、使用できなくなったばかりの回路にかわって、あらかじめ用意されている補助装置が自動的に動き出す、ということではない。[143]

動物(昆虫)がやっているのは、

動物はただ依然として同じ世界に対して存在し続けており、その全力をあげてこれにむかっているだけのことである。[143-144]

どういうことか。動物は世界についての客観的な(物理法則を理解した)知覚によって生きているのではない。不完全で盲目的ではあるが、「開いた」状況として生きている。開いているからこそ、現状の条件でどうにかして動けるようにしていく。物理法則に沿った移動方法を「備えて」いるから、自動車のように移動できるというのではなく、どのように使うかはともかくとして、動かせる肢がいくつかあって、それで世界に向かって開くことで、どうにかして、結果的に、物理法則に叶う移動を実現していく。

一方で反射について

思考や脳による把握や理解などとは無関係なもの、という意味で「反射的に」という言葉があるように、反射は、定義からして機械的な反応という意味がある。まさに、客体としての相互外在的な諸関係のみによってなされている動作に思える。しかし、実はそうではない。

反射は対象の各店から発する刺激を待たずに、遠くから対象の構造を素描する。もろもろの部分的な刺激に一つの意味を与えるもの、つまりそれらをして有機体に対して重要なものたらしめ、これに対して有効なものとなし、あるいはこれにとって存在させるゆえんのものは、まさに状況のこの全体的な現前なのである。[145]

どこかでなにか光ったか何かした。それによって、まぶたを閉じた。この反射は、その光(か何か)が、こちらに向かって飛んでくるかもしれないという予測によって、眼球を守るために、まぶたが閉じた、というものである。これはつまり、ある刺激を伴う状況に向き直り、その状況に対して「何か飛んできて危険かも」という意味づけをしている。その刺激自体がまぶたや眼球に伝わったのではなく、その状況を先回りして意味づけすることをしている。

こうしてみると反射として生じているのは、単なる客観的刺激への反応とは言えない。その「状況の意味に向かって自己を開く作用」である。

つまり、肢の切断された昆虫がやっていることも、反射として生じている作用も、メルロ・ポンティが知覚としてみている同じ様相だということになる。知覚とは、

最初から認識の対象を措定するのではなくて、われわれの全存在の一つの思考である限りでの知覚[145]

である。「世界における(への)存在」であり、先客観的な展望である、その二つの事例ということになる。

動物(昆虫)という古典的な「思考しないもの」「精神をもたないもの」の例と、人間における反射という動物的な動作の例に、予測、把握、意味づけといった思惟の様態でしかない語彙が含まれている。このことから、メルロ・ポンティは「世界における(への)」存在と呼ぶ先客観的な展望が、前節で問われた「共通の場」として、「心的なもの」と「生理的なもの」との連結を実現しうるであろう期待がある、とする。

以上