2023年12月1日 大谷隆

範囲

第Ⅰ部 身体

〔経験と客観的思惟、身体の問題〕

各段落に見出しをつけ、内容を自分なりに書き直してみた

001 「まなざし」によって対象に迫る

家を見たとき、その距離と角度から見えたものが家だと思うが、そのアングル以外からも家は見えうるし、その場合に自分が見えている像とは異なっていることも知っている

知覚が対象を捉える。「対象として」捉える。このとき、対象は単なる網膜上の像ではなく、そこに存在している「或る何か」として捉えている。

こういった対象への迫り方を「まなざし」と呼ぶ。

まなざしは、単なる視覚的像による認識とは区別される。まなざしは、或る何かを一瞥したあと、もう一度それを見た時、それが先程一瞥したそれと同一のものであることを、先程得た視覚像と今得ている視覚像の異同によって判別しているわけではない。まなざしによる知覚は「私に直接知られる」のであり、「ここの部分がこうだから、これらは同じもの」という思惟による演算を必要としない。

対象を見る時、その場所から見ている像しか得られていないにもかかわらず、「その視界(パースペクティヴ)のなかに閉じ込められない」で、それ以外のパースペクティヴもありうることを知っているということは、どういうことなのだろうか。まなざしとは、なんであり、知覚とは何をすることなのだろうか。

002 空間的パースペクティヴを得るとは、対象を見る時、その対象の地平を得て、その対象に居を定め、対象に見られうる全方向として空間的世界を形成すること。

一つの対象を見て、次にそれ以外の対象を見る時、最初の対象は「視野の欄外」に置かれる。欄外とはいえ、その対象は、対象として見ていないときもそこに存在するということを、僕は知っている。一つの対象を見る時、それ以外の視野はぼやけて、背景となる。対象は図であり、背景は地となる。僕が次々に何かを見ていくとき、この図と地が次々と入れ替わっていく。対象が、存在したり、消えたりするわけではない。

何かを対象として見るというのは、その対象の地平を得ることである。地平を得るとは、その対象が全方向から、そして内部からも、見られうるということを受け入れることで、その時、対象は「活気を帯び」ている。「他の諸対象は欄外に後退して色褪せる。だが依然としてそこに存在し続ける」。

さっきちらっと見た物をもう一度よく見る、というとき、その物が同じ物であることは、視覚像の比較によって行われるのではない。だとすれば、どうやって同一性を保証するのか。さっき見た姿が、今見ている物の地平に含まれている、その物にその姿が含まれている、という了解によって、同一性が発生している。これを可能にする対象ー地平という構造が「パースペクティヴ」である。パースペクティヴ(視界)によって、その対象は、別の何かの陰に隠れたり、現れたりする。

その対象が「姿を現す世界の中に入る」ことが「見る」ことである。対象を見ることは、すなわち「この対象に居を定める」ことで、それによって、その対象が見られうる全ての視界(パースペクティヴ)が生じる。このパースペクティヴの総合を空間的世界として僕が知ることになる。

対象を見て、その対象が存在する世界に入ることが、すなわち、世界というものを形成することでもある。この逆ではない。

「まず空間があって、その中に或る地点があり、その地点に対象がある」のではなく、或る物を対象として捉えることで、その対象を見ることができるパースペクティヴが無限に生じ、そのパースペクティヴの総合として、空間が事後的に措定される。空間的世界が形成される。

003 時間的パースペクティブを得るとは、空間的と同様に、対象があらゆる時点から見られうることによって形成されること。

今見ている家は、昨日見ていた家と同一のものであり、明日見るだろう家とも同一のものである、と知っている。今見ている家は、今以外の時点からも見られうることを知っている。今見ているその今という一点に、現在として「居を定め」つつ、過去に見た視界は把持されており、未来に見るだろう視界は予持されている。こうして、時間的パースペクティヴが得られる。過去現在未来という「時の流れ」を連続した時間性として得る。

空間性と同様に、もともと「時間の流れ」があり、その中の特定の点を現在としているわけではなく、現在という時点から対象を見ることで、対象の時間的地平に入り、対象があらゆる時点から見られうること、つまり無数の時間的パースペクティヴが生じ、その総合として、時間の流れが生じている。

004 経験の限界から対象の客観的存在性が生じる。

人間のまなざしには限界がある。たとえその対象があらゆる地点や時点から見られうるとしっていたとしても、実際にはあらゆる点においてみることはない。過去の時点での姿を記憶していても、誤謬があったり、記憶そのものが変化していたりする。その時、僕たちは、その対象の「真の姿」は、その対象そのものが客観的に存在し、その存在によって所有されている、と思う。つまり、僕たちは、その対象が所有する姿を、その対象から「引き出している」、と思う。

こうして、僕たちは、自分自身が見ることによって得た姿が、見るという経験自体を超え出て、対象そのものの側に姿が在ると思うようになる。

そもそも最初から、その対象がその姿を所有している、そういう姿をした対象であって、その像を得たのだ、という経験として「対象を措定」する。「経験」を主体として言うと、経験が自分自身の限界を超出し、経験そのものを塗り替える。

この時、対象の客観的存在性が生じる。つまり、対象が見る主体とは無関係に、それ自体として存在している、ことになる。

005 対象の措定は、宇宙による世界の踏み越えであり、経験から理念への移行であり、客観的世界の固化である。

対象が措定され、存在すると、私の「見る」という経験は忘却され、「対象として取り扱う」ことになる。

こうして、対象物から成る「完成した、顕在的な総合の概念」である宇宙が、私やあなたが見たり見られたりする「相互的な、含蓄の関係からなる、開いた、無限的な多様性の概念」である世界を踏み越える。私の世界が、誰のものでもない宇宙に取って代わる。

同時に、「私は私の経験から離れて理念に移行する」。宇宙は、私の経験とは無関係に、理念として理解されうるものである。世界は、私の経験によって知覚されている。

このようにして(キルケゴールの意味における)「客観的な」思惟ーー常識、科学の思惟ーーが形成される。

006 客観的思惟による自己の身体の取り扱い不可能性から、経験を取り戻し、知覚する主体と知覚される世界を明らかにしよう。

対象というものはそもそも「存在」していたわけではなく、経験によって生じ、出現した。しかし、その経験は忘却されている。もう一度、再発見する必要がある。

宇宙から世界を、客観的思惟(理念)から経験を取り戻す。対象が対象として措定されていった経験に復帰し、そこで起こっていることを明らかにし、記述する。

その手順のために、一旦「客観的思惟を受け入れよう」。

というのは、

というのは、これこそ客観的世界の生成における決定的な瞬間だからである。科学においてすら、自己の身体というものは、科学が押し付ける取扱いを逃れようとすることがわかるであろう。[135]

客観的思惟を受け入れ、客観的思惟によって支持される科学によって、身体を詳しく見ていくと、「私の身体」というものが科学では説明不可能であることがわかるだろう。その地点こそ「客観的世界の生成における決定的瞬間」であり、「知覚する主体と知覚された世界を、ともども明らかに」し、つまりは、知覚というものがどのようなものであるかが明らかになる。

現象学の強い魅力

この本を読んでいてワクワクするのは、失われた「あの頃」は、じつは忘却であって、思い出すことができるということだ。大人になってしまった僕たちは、もう子供に戻ることはできない。しかし、メルロ・ポンティは、いつになっても、子供の頃を思い出し、子供の頃の現象に復帰することができると言う。これが、とても魅力的だ。

素晴らしい経験の最中は、それ自体は言葉にならない。絵にも音楽にもならない。そもそも「素晴らしい経験」と意識することすら難しい。しかし、事後、その経験を思い出し、それに復帰し、その世界のなかで現象を記述することができる。言い換えれば、現象学は表現というものを可能にする条件となっている。

自分自身が経験したはずのない出来事を、作家は、主人公の物語として記述することができ、読者はそれを主人公になったかのように読むことができる。これも、書き手が現象に復帰しつつ記述することが可能だからであり、読み手が読むことで現象に復帰することができるからだ。

現象学は、憧憬を再現前させる強い魅力を放っている。

以上