2023年8月17日 大谷隆

範囲

緒論 古典的偏見と現象への復帰 Ⅲ「注意」と「判断」

分析的方法

いずれも(経験主義も主知主義も:引用者)分析の対象として客観的世界を取り上げるのであるが、この世界は時間の上からいっても意味の上からいっても、最初のものではないのである。[65]

分析的方法は「現在の状況を結果として、それを分析して原因を求める方法」。対義語は総合的方法で「原因から出発し結果を求める方法」。(デカルトは分析的方法を、スピノザは総合的方法を是とした。)

客観的世界を分析の対象とする、ということは、客観的世界を前提にして、そこから分析プロセスを開始するという意味。しかし、メルロ・ポンティは、そもそも、客観的世界は、順序として後にくると主張する。

「注意」とはどのようなものか。

経験主義の限界

経験主義者にとっては、そもそも注意なるものは無い。われわれは、客観的世界から刺激がやってきてそれを受け取っているだけだからだ。

しかしそれではうまく説明できないことがある。たとえば、遠ざかっていく車を見る時、車の視覚像は刻一刻と小さく変化していく。それを我々は、同じ車が遠ざかっていくために小さく見えていると感じ、車の大きさが小さくなっているとは感じない。ここで、一つの仮説が必要になる。これを「恒常性仮説」とする。

同じような例として、我々は、複雑な形(例、マウス)をした物を回転させながら眺めたときにも、刻一刻と新たな視覚像を得ているが、それらは別のものに次々と瞬時に置き換わり続けているのではなく、一つの同じものが様々な側面を見せていると感じる。これも恒常性仮説によって説明可能になる。

恒常性仮説を採用すると必然的に、例えば「車の正しい大きさ」や「複雑なものの正しい形」がどこかに存在することが前提される。「いま見えている視覚像は、こうだが、それにはどこかに本当の姿(正規の感覚)があって、それが小さかったり、あまり見ない形だったりに変化している」と。

しかし、この「正規の感覚」としての車の大きさやマウスの形が「どれか」は通常、気にすることがない。そこで経験主義者にとっての注意は、この通常、気にすることがない正規の感覚を照らし出す投光機の光のことを言う。

だから正規の感覚は気づかれていないにちがいない。そして影の中に前から存する対象を投稿機が明るみに出すように、これらの感覚を開示する機能が注意と呼ばれる。[66]

経験主義にとっての注意は、もともと存在している正規の感覚を照らすことなので、新たに何かを創り出すものではなく、対象その他にとって何らかの関わりを持つものですら無い。

メルロ・ポンティの反論

しかし、注意は「知覚を発展させ豊かにする」生産的なものではないか。

主知主義の主張と限界

これに反して主知主義は注意の生産性から出発するのである。   私は注意のおかげで対象の真相を知ると意識するだろう。注意はただむやみやたらに対象のある姿を別の姿を継起させているのではない。[66]

私は注意において対象が明らかになることを経験するのだから、知覚される対象は注意が明らかにする知的な構造をすでに含んでいなくてはならない。   意識がまえもってそこにそれを入れておいたからである。

主知主義的な絶対意識は、対象に関するあらゆることを最初から「知っている」。それを、再発見するのが注意である。「気を失った人が自己に戻る」ように明瞭に発見する。不注意とは、半睡状態を意味し、それによって誤謬が生じる。

知覚はにとって、全ての真実は、霧のような障害物に覆われているか居ないか、だけが問題となる。本来的に、遮ったり迷わせたりするものが「ない」のが知覚である。

このような知覚は否定によってしか記述できない。[67]

すでに全ての知的構造はあり、それを注意によって発見する。

メルロ・ポンティの主張

しかしながら、すべてのものを構成する意識、いやむしろすべての対象の知的構造を最初から所有しているような意識においては、何ものも構成し得ない経験主義の意識におけると同様、注意はなすべき仕事をもたないのだから、依然としてそれは抽象的な無意味な能力なのである。[68]

すべてのものが「こうである」と最初から所有しているのであれば、「注意」はいったい何をしているというのか。「何もしていない能力」だとすれば、それは「無意味な能力」である。

経験主義は「われわれが探求するものをわれわれは予め知っている必要があるという事情を、了解していない」。主知主義は「われわれが探求するものについて、われわれは無知でなければならないという事情を、了解していない」。

いずれも「学びつつある意識」を捉えていない。「ところで、この制限された無知、この空虚では或るが規定された志向こそ、ほかならぬ注意なのだ。」

具体的には、

注意に課せられた最初の仕事は、われわれが「見渡す」ことができるような知覚野、もしくは心的領域を、自分のために創ることである。[70]

「知覚野」という言葉は経験主義的な外的刺激の感官として、「心的領域」は主知主義的な内的領域として選ばれた言葉であろう。いずれにせよ、経験主義や主知主義が機能し始めるための「場所」を、注意は、まず創り出す。

したがって対象は、この出来事の「動機」であって原因ではない。しかしながら、少なくとも注意の作用は意識の生のうちに根ざしたものとなり、また注意が無差別的な自由を脱して現在注目している対象をおのれに与える事情が、これによってついに理解されるであろう。[73]

経験主義的な「注目」があるにせよ、それは「おのれに与えられ」ること(知覚野に置かれること)で、初めて発揮される。

無規定なものから規定されたものへのこの移行、瞬間ごとに自己自身の歴史を新たな意味の統一のもとに捉え直すこと、これこそが思惟そのものなのだ。[73]

注意によって、なんらかの刺激が「おのれに与えられ」、それによって瞬間ごとに「自己自身(心的領域)」が変化し、その変化を新たな自己自身として捉え直すことが、主知主義の言う思惟であり、これによって初めて主知主義的な世界観の前提が生じる。

判断

経験主義が「感覚」を主要と見なすように、主知主義は「判断」を主要と見なす。

判断はしばしば知覚を可能ならしめるために、感覚に欠けているものを補うものとして、導入される。[74]

メルロ・ポンティから見れば、「感覚」と「判断」は相補的である。また、経験主義と主知主義はお互いに自らの取り分を極限まで引っ張っている。

主知主義の判断は、主知主義の主張するほど万能だろうか。もしも、万能であるならば、

ところで、もしわれわれが判断するがままに見るのだとすると、真実の知覚を虚偽の知覚から区別することがどうして可能だろうか。   「見る」ことと「見ると信ずる」ことの間の相違はどこにあるのだろうか。[78]

その根拠が「十分な徴表と材料に基づいて」いるのだとしたら、判断に先立って、何かを「そうだとしている」ことになる。

したがって真実の知覚の現象こそ徴表に内在する意義を提示するものであり、判断はその任意的な表現に過ぎない。[78]

ツェルナー錯視は強力な錯視だが、そもそもなぜそれを「錯視」と呼ぶのか。そもそもそれは「錯誤した視覚」なのか。

現象学的記述の魅力

ツェルナー錯視を現象学的に記述する。

補助線を受け入れたために、主戦が平行線たることをやめ、平行線という意味を失って、なにか別の意味を獲得したのだということ、つまり補助線が図柄のなかに新しい意義を持ち込み、今後この意義はそれにつきまとい、もはやそれから分離されなくなったということ、われわれは、以上の事実を認めなくてはならないであろう。

他にも、たとえば「妻と義母」のだまし絵は、それを「妻」だとして見ている場合に、「義母」の要素は見出すことはできない。絵柄の全ては「妻」を構成する要素である。しかし、一度「義母」として見えだすと、「娘」としての要素はどこにもなく、全ては「義母」の要素となる。

こういったことを「半睡状態で見ているから見間違えている」とはいえない。つまり「錯誤」ではない。知覚とは、「見る」とは、そもそもこういった段階や領域の出来事である。

図柄に付着したこの意義、現象のこの変容こそ、誤った判断の動機となり、いわばその背後にあるものなのである。同時にこれこそ、判断の手前において、しかも性質もしくは印象の彼方において、「見る」という言葉に独自の意味を与えているものであり、改めて知覚の問題を露呈させるものなのである。[79]

改めて、現象学や現象学的記述の魅力について考える。

現象学は、例えば「学びつつある」こと、「知りつつある」ことに復帰し、それを記述することを旨とする。一度学んでしまったこと、知ってしまったこと、を前提にして、学ぶ前や知る前を分析するのではない。

自転車に乗れるようになった自分が、どのようにして自転車を操縦しているのかを記述するのは難しい。「無意識に」という便利な「覆い」を被せて、意識の外側に放置することができる。しかし、今まさに自転車に乗れるようになろうとしている子供にとって、自転車に乗ることを意識しないわけにはいかない。言葉が話せるようになること、「が」と「は」の使い分け、「一本、二本、三本」という数詞の読み方。

今まさに、その渦中に在る者にとっての、その体験の様子を記述するのが現象学的記述であるとすれば、その魅力は、あの「もどかしさ」、「希望と可能性、失敗と挫折」、喜びと落胆、希望の扉と絶望の断崖、それらを濃厚な混交を思い出させるからではないか。

現象は、現象が完遂した結果を分析して得られた原因から、改めて結果へと進んだものと同じではない。結果から原因への遡行は、現象の逆過程ではない。ということではないか。

ところで、芸術表現は、新たな回路を生み出す。それによって、今までにはできなかったことができるようになる。しかし、それは、科学技術のように、現在を前提としてその進歩的な先方に可能となるというよりは、あるいは全ては予め決定されていて(物理法則的に)、そのうちの人類の技術レベルで可能な範囲が可能になるというようなことというよりは、現在がこのようであるという「前提」そのものの成立以前に立ち戻り、それを捉え直すことによって(現象学的還元)、現在自体を組み換えて、不可能が可能となる。こういうことに魅力を感じる。

以上