2023年6月24日 大谷隆

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緒論 古典的偏見と現象への復帰 Ⅰ「感覚」

緒論で展開されること

古典的偏見とは、例えば「感覚」という何かしらかが自明にあり、それが簡単に「感覚とは〇〇である」などとすでにわかっていることとしている状況を指している。諸論では、そういった学問上(古典心理学および生理学)、すでにわかっていることとされている概念について、改めて「」に入れて現象学的還元をする。そうして、現象へ復帰し、安易な概念化によって取り逃がしていることに迫っていく。

第一節「印象としての感覚」

まず、感覚とは印象である、という古典心理学的偏見を突く。まず、印象(インプレッション)とは、

感覚というとさしずめ私が触発される仕方、私自身の状態の体験が理解されるであろう。[28]

ここでのポイントは、何かしらを受け取る「私」の側の状態のこととしていることだと思われる。つまり、感覚とは「私(の心)が、そのような状態になること=印象」といった意味合いだろう。この定義を純粋に実現すると、感覚は、

まぶたを閉じたときに隔てなしに私をとりまく灰色、夢うつつのときに「私の頭の中で」鳴り響く音などが純粋に感覚するということ[28]

になる。自他の区別がないほどに、その状況が私に充満している。状況と私が一体化しているとなる。

私が感覚されるものと一つになり、感覚されるものが客観的世界のなかに位置を占めるのをやめ、したがって私に対して何ものも意味しなくなればなるほど、まさにそれだけ私は感覚するのだ、ということになる。[28]

しかしこれは、我々の知る感覚とはズレてしまう。これだと、その感覚が「赤」なのか「温かい」なのか「痛い」なのか名指しできるような感覚の内容はつかめない。その手前のただ自分と何かが一体化しているだけで、「およそ一定の性質をもった内容に至る手前」に感覚があることになる。

純粋な感覚とは差別付けられない、瞬間的な点のような「衝撃(ショック)」の体験となるだろう。[28]

もちろん、これは誤りである。

いやしくも事実上の知覚であるなら、関係に向かっているのであって、決して絶対的に孤立した項に向かっているのではない。[29]

感覚というのは、それ単独であるようなものではない。赤、温かい、痛い、といった感覚は、いわば地の上の図のような関係の全体によって得られるものである。

地と図、例えば布地の上の白いシミ(図)では、

  1. 図の色は時の色より濃密でいわば抵抗性が強い。(抵抗性が強いとは、目が行く?見逃しにくい?ということか)
  2. 白いシミの縁はそれに「属して」いて、同じようにこれと隣接する地には結びついていない。(輪郭は対象の輪郭であって、背景が切り抜かれた線ではない。なぜなら次項のように、背景は切り抜かれていないから。)
  3. シミは地の上に置かれているように見え、地を中断してはいない。(例えば机の上にあるコップがある。コップに隠れて見えていない部分にも机の天板はあってその上にコップが載っているように感じる。コップの陰になっている部分は、ただ隠れて見えていないだけだと知覚される。コップの背後の部分が切り抜かれているとは思わない。)

といった関係があることを、布地の上の白いシミを視覚が捉える(感覚する)ときに、すでに一挙に把握している。決して、白いシミ(図)だけを単体で感覚しているわけではない。

地の上の図ということは、まさに知覚的現象の定義にほかならないのであって、この条件が備わらなければ、いかなる現象も知覚とは言われないのである。知覚される「あるもの」はいつでも他のもののさなかにある。それは常に「野」の一部分をなしている。[30]

我々は、背景と対象(地と図)という一つの関係を一挙に把握することで知覚している。要素の集積として把握しているわけではない。つまり、対象のみを感覚しているわけではない。

第二節「性質としての感覚」

印象としての感覚が、受け取り手である「私の状態」に振れているとすれば、「性質としての感覚」は、感覚をもたらす元としての対象の側に振った定義である。

見るとは色彩や光を手に入れることであり、聞くとは音を手に入れることであり、感覚するとはもろもろの性質を手に入れること[31]

私の外側にすでにある何かに属している「性質」を手に入れること、その性質のことを感覚というのだという偏見。

しかし赤とか緑とかは感覚ではなくて、感覚されるものである。そして性質とは意識の要素ではなくて対象の特性である。[31]

実際に我々が「赤」だと思うとき、

それは対象もしくは近くされた光景の全体と等しく、内容豊かで不明瞭なものである。[31]

そもそも、一体どのようなことを「赤」だと思っているのか。客観的に例えば光のスペクトルのようなものとしてあるのか?

私が絨毯の上に見るこの赤い斑点は、それを横ぎる影を考慮に入れた場合に、初めて赤いのだ。その赤いという性質は光の遊戯との関係によってしか、したがって空間的な布置の要素としてしか現れない。[31]

のちに出てくるチェッカーシャドゥ錯視で明らかなように、我々は色を光学的な周波数で判別しているわけではない。それがその色に見えるのは、その空間的な関係(影など)を予め考慮して、その色として見ている。つまり、予め対象の性質として、私とは無関係に「赤」に決まっているわけではない。私が赤と見ていて、その際に、すでに、その色が空間的にどのような状況にあるかを含み込んでいる。

ものの大きさや形についても、単純に網膜像の形や大きさを測定して、知覚しているわけではない。「経験錯誤」とは、このような単純な知覚の捉え方の誤謬を指している(ケーラー)。

われわれは知覚されたものでもって、知覚を作り上げているのだ。そして知覚されるもの自身も知覚を通してしか与えられないことは明らかなのだから、結局、知覚も知覚されるものもともに、われわれは理解していないことになる。われわれは世界のとりことなっているので、そこから離脱して世界についての意識に向かうことは容易ではない。もしこれができれば性質が決して直接体験されるのではなくて、どんな意識もあるものについての意識であることがわかるはずである。[32]

丸い円は、予め「円」という性質がその図形に備わっているのではなく、私がそれを「円」として知覚することで、その図を「円」と呼んでいる。しかし、そうなると、一体何をもって「円」と言っているのか、根拠がなくなることになる。しかし、実は、我々は、通常、根拠なく知覚している。例えば、視野とはそのようなものである。

はっきりと規定されない眺め、つまり何だかわからないものの眺めがある。つきつめていうと、私の背後にあるものも、視覚に現前していないわけではない。[33]

初めて見たときからずっと壁に貼られっぱなしなっているポスターがある。一度も剥がして確かめたことがなくても、ポスターの裏側には壁があると我々は知覚している。人間は、自分の背後を見ることができない。しかし、そこにも見えている視野の延長があるはずと思っている。自分の世界が、見えている部分だけしかなく、見えていない部分は未確認として知覚から除外されているわけではない。見えていないだけであるはずだと思っている。

ミュラーリーエルの錯視。「長さ」という知覚自体が、紙の上に定規を当てて測定するように、判別しているものではない。

二つの線分は、等しくも不等でもない。等しいか、等しくないか、いずれか一方であるという二者択一は、客観的世界においてのみ強制力を持っている。ところが視野とは互いに矛盾し合う概念が交叉しあう得意な領域なのである。 (…) あたかも二つの線分が同じ世界に属していないかのように、それぞれ独自の文脈において捉えられているからである。[33]

現状、心理学で妥当性が高いとされる説明ではこうなる。例えば長方形のテーブルを斜め上から見た場合、天板の手前側の一辺の両端と脚を図化すると閉じた羽の矢印状になる。一方、向こう側の一辺と脚を図化すると開いた矢印状になる。手前の一辺と向こう側の奥の一辺は同じ長さだが、見た目は手前のほうが長く映る。この関係で考えると、もしも、奥と手前とが同じ長さに描かれていた場合、手前の一辺は短くないとおかしい。抽象化された「図」のなかに、現実の3次元空間の認識手続きが読み取られている。心理学的には、こういった錯覚の説明は錯覚ごとに必要になってくる。すべての錯覚に対して、十分に蓋然性の高い説明が得られているわけではない。

メルロ・ポンティが言わんとしているのは、さらに原理的で現象的なことで、要するに、二つの羽の付いた線分はそれぞれ異なる世界を構成していて、その世界をまたいで「長さ」を感じることはできないというものだ。

自分の見ている方向に一直線に伸びていく道がある。その道の両端を形成している縁の線は、消失点にまで伸びている。消失点は無限遠にある。また、道端に木が立っている。さて、消失点に伸びる道の縁の長さと木の高さは、どちらが長いか。

この視野を写真に撮ったり絵に描いたりして、その図像に直接定規を当てれば、どちらが長いかわかる。しかし、こんな判定は、私の「長さ感覚」には、無意味である。なぜなら、消失点に伸びる道の長さは無限であり、木立の高さは有限であることは、測定する必要なく、わかっている(知覚している)。「網膜像」の見かけ上の長さを比べることは意味をなさない。この比較が意味を成すのは、図版に定規を当てて測定するような「客観的世界」での把握においてのみである。

第三節「刺激の直接の結果としての感覚」

この節は少し流れを追いにくい。

印象、性質のどちらの定義もうまく行かない。しかし、「常識」には一致している。

常識もまた感覚の内容を、それが依存する客観的な条件によって限定するのである。[34]

印象も性質も、心理学的な定義と言える? だから錯視のように「騙される」。では、生理学的に考えてみてはどうか。

知覚の生理学は、一定の受容器から発し、一定の伝達器を経て、これもまた特殊化した記録係に達する解剖学的な道程を、最初から仮定してかかる

生理学的な説明は、客観的世界がまずあり、そこから感覚器官にメッセージが入り、それを解読しているというモデルになる。このモデルでは、刺激とその刺激に対応した一対一の「恒常的」な関係があることになる。

しかし実は、我々は一時たりとも同じものを同じようには見えていない。遠ざかる車の視覚像は常に変化している。にもかかわらず、我々は、車の大きさが刻一刻と変化しているようには見ないで、同じ大きさ(ある一つの「正しい」大きさ)の車が遠ざかっているように見る。こういった恒常性を「恒常性仮説」として導入せざるを得ない。

これでは、外的刺激と「感覚の内容」とが直接の結果という関係にならない。

われわれが現象に立ち帰るなら、大きさの把握と全く同じように、性質の把握も知覚の文脈の全体に結びついていることがわかるだろう。[37]

外的刺激が直接、感覚にだけ結びついているのではなく、知覚という全体にも結びついている。言い換えると、

外的世界の原文が単に写し取られるのではなくて、構成されるという風に理解されなくてはならない。そして「感覚」を準備する身体的現象という展望において「感覚」なるものを捉えようとするとき、われわれが出会うものは、若干の既知の変項の関数としての心的個体ではなくて、すでに一つの全体に結びつけられ、一つの意味を付与された形成体なのである。[38]

身体とは別の位相にある、精神的な、心的個体に向かって、最初に外界から身体的受容体に入り、伝達経路を通って、刺激がやってきて、それを心的個体が解読しているという(デカルト的な身体ー精神モデル)わけではない。現実の全体的な人として、感覚というものをみなければならない。言葉で定義すれば、

感覚的なものとは、感官でもって把握されるもののこと[39]

と言い得るが、この「でもって」という言葉の意味合いは、単に生理学的な領域における「器具的関係」を意味するのではない。

第四節「感覚するとは何か」

改めて、感覚するというのはどういうことか。知っているつもりになっていた「感覚すること」「見ること」「聞くこと」という言葉が、問題になる。

そこでそれらが指し示す経験そのものに立ち帰らなくてはならない。[39]

現象学的還元をする。あたかも常識では、最初からあると思っていた「感覚」というものは、実は私によって作り上げられた「世界」というものの「最後の項」なのである。

まず、考え直さなければならないのは、要素を集めてくれば全体になる、という考え方である。この考え方で古典的な心理学ならびに生理学は、あった。

全体は、周知の物理ー数学的分析手段の手に負えるものではなく、別の方の理解を要求する。[40]

要素を集めていけば全体になる、のではなく、全体というものは全体というものとして捉える捉え方があり(ゲシュタルト心理学)、その場合、要素は必ずしも明確化されていない。視野には、何かよくわからないものがたくさんあり、すべて把握しているわけではないが、それでも「見えている」。

また、我々の常識は、子供より大人で、より成り立つ。常識は子供の頃からはっきりと認識されているわけではなく、大人になるにつれて「次第にはっきりと現れてくる網のようなもの」であり、最初ではなく、最後のものである。我々がすでに知っているつもりになっていた「感覚」も、実は、そのようなものである。

現象学の面白さ

現象学の面白さは、「〇〇は~である」という普遍的で本質的な命題を前提的な要素として集め、それらをパズルを解くように組み立てたり分析したりするのではなく、むしろ、「〇〇は~である」と「わかったつもりになっていること」の「わかる」前の、私の経験でしかない個的な領域に何度もしつこく立ち戻って(現象学的還元)、そこで、じっくりとあれこれと確かめていくことができるところにあると思う。粘土をこねたり、文章を推敲したりする面白さがある。

パズルを解くのが「学」であるとすれば、現象学はやはり「学」ではなく、「学」そのものを生み出す前段階になる。方向性としては「学」の礎になろうとしていて、「学」などどうでもよいというわけでもない。完成すれば見えなくなってしまうが、それによって上に築かれるものの様相が大きく変わる。

以上