ゼミ実施日 2023年5月27日 大谷隆

範囲

序文

メルロ・ポンティの文章の特徴

第一部までを読んだ経験から、メルロ・ポンティの文章の特徴をある程度掴むことができた。メルロ・ポンティは、概ねシンプルな作文作法に従っている。

  1. 一つの段落で一つのことを述べる。段落内では直線的に記述され、段落途中で論旨が「曲がる」ことがない。
  2. 見出しがある場合は、本文の内容を要約したものになっている。本文に対してメタ的であり、本文に関与、干渉しない。

また、作文作法以上の意味で特徴的なこととして以下がある。これらは現象学的記述に関連があるか、それそのものであろうと思われる。

  1. カギカッコ「」内の言葉は、一旦、判断を保留させて読む。判断とは、その言葉に対する正誤、価値づけなどを分析した上で、下すことで、それをせずにその手前でとどめておく(現象学的還元)。
  2. 実感を伴いつつも、それを原因に結びつけていない「生きた」表現は、概ね言祝がれている(現象学的記述)。

序文の要約を試みる

これらを元に、以下の方法で、序文の要約を試みる。

  • 序文は「3つの*記号」で区別された6つの節からなる。
  • 各節は数個の段落からなっている。
  • 節および段落の見出しをメルロ・ポンティ的に作成し列記する。

表記例、「1‐2」は第1節、第2段落。

1-1 現象学は、本質の研究であるとともに、本質を実存の中に戻し事実性から出発する、世界との素朴な触れ合いを再発見する哲学である。

1-2 反省された完全で普遍的・本質的な哲学よりも、前の段階での、動きである。

1 現象学は、本質を実存の中に戻して出発するが、現象学自身もまた、哲学以前の「神秘」として哲学を実存に戻す。

2-1 科学は対象化した世界を分析し、本質的、普遍的に再構成しようとするが、現象学はそれ以前の世界の出来事に戻る。

2-2 観念論的な意識の根拠であるコギト(思惟)は「・・・についての思惟」であり、対象についての思惟である。対象化以前の、一体的な背景的事象全体を丸ごと思惟できない。経験できるだけである。

2-3 人間は認識できない、判断できないものでも、現実か夢想かを知覚する。世界は判断や認識の前にあり、現象学はそれを記述する。

2 世界は、科学的な判断や認識の前にあり、人間は世界に属しつつ、世界に臨む。

3-1 観念論的意識は、誰のものでもない唯一絶対の意識であり、他者と自我は一体となる。フッサールには他人の問題がある。私にとって私は絶対的だが、それだけの唯一のものではなく、他人から見られる私も私である。

3‐2 現象学的還元とは、例えば、世界に驚いたときに驚きをやめて、観念論的意識で反省・分析するのではなく、驚きつつ、その状況を保留する。その驚きに還帰して繰り返し体験し直す。これが現象学的還元である。

3 現象学的還元と観念論的な意識への復帰の違いは、一つは他人の存在である。もう一つは反省ではなく、保留である。

4-1 フッサールの「本質」は、実存に並列的に対置される意味での本質ではない。

4-2「世界がある」と私の生が主張するその根拠は証明できない。世界の本質は、そのような証明・説明できなさのこと自体であり、「世界は~である」と明瞭に証明・説明できるという意味での本質ではない。

4 フッサールの言う世界の「本質」とは、世界は本質的には説明できないということである。

5-1 志向性とは、「それがあれである」と対象を認識するような意識の向き方ではなく、それ以前の「働きつつある志向性」、世界と我々の生との自然的な先述定的な統一を形成する志向性のことである。

5-2 現象学的な了解とは、「それはあれである」と判断し認識する了解のことではなく、対象化される前の全てが一体化したままの状態でありつつ、その状況全体がいわんとするなにか(現象学的志向性)についての了解である。

5  現象学的な志向性と了解は、明瞭な対象化や分析判断の前におけるものである。

6-1 現象学は多重露光的な重なりによって像が打ち立てられる。どの像が正しいかではなく、どの像も「引き受け」られ、その重なりから「打ち立てられる」、その造像運動自体のことである。問題を解決するのが哲学であれば、現象学は哲学ではなく、その手前の「神秘」であり、この段階である現象学が、哲学と問題を打ち立てる。

6-2 現象学は合理性に基づいて判断されるのではなく、その合理性を打ち立てる。

6 現象学の位置は、哲学の手前にあり未完成であり、むしろ、哲学を、問題を、解決のための合理性を、打ち立てる。

メルロ・ポンティの文章の面白さと魅力

いったいメルロ・ポンティの文章は何が面白いのだろうか。本書を読んでいて感じる、湧き上がるような面白さ、魅力はどういうことなのか。上記のような要約では、メルロ・ポンティの文章の魅力は、実はこぼれ落ちてしまっていると感じる。魅力的な箇所は散在しているが、特に魅力的に感じた文章は以下のところ[7]である。

私の知覚領域はたえず光の反映やがさがさいう物音や触覚的印象によって充たされている。

私は、私のまわりにいつもなんだかよくわかっていない、まだ対象化できていない様々な印象が、対象化できているものの隙間を埋めている。

これらは束の間に消え去るので、私は正確に知覚の文脈に結びつけることはできないが、それでも直ちに世界のなかに置き、決して夢想などと混同することはない。

しかし、「それはあれだ」とわからないからといって夢想だとは思わない。

また私はたえず事物のまわりに夢想をただよわせ、仮に現存しているとしても必ずしも近くの文脈と不釣合ではないような、対象や人物を想像する。

現実のものの周りに現実にはないものを想像したりもする。それでもそれが現実か空想かわからなくなるわけではない。

ところがそれらは世界とまじりあわない。世界の手間に、空想の舞台の上にある。もし私の知覚の現実性が、もろもろの「表象」の内的なまとまりにしか基づいていないとしたら、この現実性はいつも不確かなものであり、私は蓋然的な推測に頼って、たえず錯覚的な総合をうちこわし、はじめは異常なものとして現実から排除した現象を、改めて現実に加えなくてはならないであろう。

もし私が「内的人間」であり、私の世界は「内的人間」が見ている「表象」の寄せ集めでしかないのであれば、現実も空想も同じく「表象」のレベルにあり、ある「表象」が現実なのか空想なのかは、蓋然性(有り得そうな度合いの高さ)にしたがって、裁判官が判決を下すように、判断せざるを得ない。錯覚は、まず蓋然性の低い空想としてあり、しかし、その後、再度、熟慮の末に現実に加えるという手順になるはずである。

実際はそうではない。

現実は丈夫な織物であって、どんな意外な現象を自己に付加するためにも、また、どんなまことしやかな想像を退けるためにも、われわれの判断の助けを待ってはいない。

僕たちは現実と想像の区別を、何かしらの明瞭な判断によって「~だから現実、~だから空想」と知覚しているわけではない。

近くは世界に関する一つの科学ではない。それは一つの行為ですらない。つまり熟慮を経た上での態度の決定ではない。知覚は、その上にあらゆる行為が浮かび上がる背景であり、行為はこれを前提としている。

知覚は判断や認識のような分析的なものではない。能動的に「為すもの」でもない。それを可能にする前提であり、それらの背景である。

この文章を読むと、自分が世界を「知覚」しているその状況の不可思議さ、自分が捉えている世界というものを明瞭に説明できない、説明されるとそれだけではないと思えてくるような、ムズムズとした気分を思い起こし、その状況に連れ戻される。庭で座ってわざと視界をぼんやりさせて、何かを見るともなく眺めるようにしたとき、見ていることに気をつけているようで聞こえてくることのほうに気を取られていく感覚。部屋で考え事をしているとき目に入ってくるのは壁の模様で、それは確かに見えていると意識しつつも、考え事の方を主に体験しているというあの感覚など。あぁ!それそれ!その感じ!がする。

これは、メルロ・ポンティが「知覚」というものについて現象学的に記述しているからだと思われる。現象学的還元により、メルロ・ポンティは知覚するという状況を保留し、知覚とは何々であるという説明に到達する前の状況の記述を実感のある言葉を交えて続けてくれている。これが面白い。

メルロ・ポンティは、小学生の作文のようなシンプルな作文法で、なんら文学的装飾性のないように見える無骨な論文的語彙を使用している。しかし、現象学的記述をすることによって、面白くて魅力的な表現を実現していると言えるのではないか。