2023年4月15日 大谷隆

範囲

第二部 知覚された世界 ・身体の理論はすでに近くの理論である

自己と世界、アパートの例

自己の身体の世界におけるは、心臓の有機体におけるようなものである。[332]

これはおそらく、「心臓が存在し機能するがゆえに有機体足り得る。同様に、自己の身体が存在して機能するがゆえに世界足り得る。」といったことだろう。

私がアパートのなかを歩きまわるとき、私に現れるアパートのさまざまな姿は、その各々が、ここ、あるいはかしこから見られたアパートを表していることを、私が知っていなければ、いいかえれば私が私自身の運動を意識し、この運動の諸相を貫いて同一なものとしての私の身体を意識しているのでなければ、同じ一つの物の諸側面として、私に現れることはできないはずである。[332]

アパートのなかを歩いたとき、私はたくさんの視覚画像を得るが、どの一瞬を撮ったとしても、他の画像と厳密に同一のものはない。しかし、私たちにはそれらが同じ一つのアパートだとして現れる。これが可能になるのは、私がアパートを見るとき、アパートを様々な角度から見ることができることを予め知っている必要がある。様々に動き回って見ることで、様々な画像を得るがそれらの複数の画像群を「貫いて」存在しているのが、私という自己の身体で、この自己の身体の継続性、一貫性、運動可能性によって、アパートは一つのアパートとして現れている。例えば、以下のようにアパートの内部を歩き回る様子を言語的に記述する。

私はアパートの入口から入った。扉をくぐると 左右 は壁になっていて、正面 は廊下が向こう に伸びている。廊下の突き当り にドアがあり、開いていて、 は部屋になっている。

強調表示した方向性を表す言葉は、直接的に私の運動を前提にして可能になっている方向感である。視覚的にも、上や下、手前、奥、右左などが、そもそも私がそのように運動できるが故に生じている。

マウスをいろいろな角度から見たとき、それらが同一のものから得られる像だと、私たちは知っているが、厳密な意味では、どの画像も他の画像と一致しているわけではなく、また、ときに一度も見たことがない画像があったとしても、大抵の場合、私たちはそれをマウスだと知覚する。

あるオブジェクト(物体=対象)を、「そのようなものである」と知覚するには、そのオブジェクト(物体=対象)が単に存在するだけではなく、そのオブジェクトがある世界のなかにあって様々な方向から、私の身体に見られうることが必要で、この世界は、私の身体が運動することの意識によって形成される。私自身と世界とはそのような意味で、一体的なものである。

われわれは身体によって世界に臨んでおり、身体でもって世界を知覚する以上、われわれに現れるがままの世界の経験を、再び目覚めさせなくてはなるまい。しかし、こうして身体ならびに世界との触れ合いを取り戻すことによって、われわれがやがて再発見するもの、それもまたわれわれ自身なのである。というのも、われわれがおのれの身体でもって知覚する以上、身体とは自然的な自我ということであり、いわば知覚の主体であるからである。[338]

こういったところがおよその主旨だと思う。

アリストテレスの錯覚

今回非常に興味深かったのが、アリストテレスの錯覚と呼ばれるもので、これを読むまで知らなかった。アリストテレスの錯覚は簡単に説明すると、人差し指と中指を交差させ、その間に物を挟むと、物の形がよくわからなくなり、どのような形のものを触っているか混乱する錯覚、といったようなものだ。

メルロ・ポンティの考察。

実は、この二つの指の知覚は、単に別々に働くだけでなく、あべこべに働いているのである。被験者は中指が触れているものを人差し指に帰し、逆に人差し指が触れているものを中指に帰する。これは、二つの指が別々の刺激、例えば針の先端と球とをあてがってみればわかることである。[325-326]

これはこういうことだろう。

一本の指で物を触る場合 → A 一つの点での「触覚像」を得る。 二本の指で物を触る場合 → B 二つの点での「別々の」触覚像を得る。

だけではなく、Bに加えて、「C 二つの点が「協働」して触覚像を得る」という二つの働きが生じている。

例えば、目をつぶって二本の指の先で同時に壁にふれると、そこには「壁」という平面の存在を知覚する。これは、二点の別々の触覚知がバラバラに得られるだけでなく、その二点がある連携をとって存在していることを読み取っていることになる。対象の「壁」というの平面の存在を知るには、自分の指先の二点の位置関係を組み入れる必要がある。自分の指が、そのような二点の位置に動かしうることによって、壁の平面性の知覚が構成されていることになる。

二つの触覚的知覚を一個の対象に総合することを不可能ならしめる原因は、指の位置が異常で統計的にも稀だということではなく、むしろ中指の右側と人差し指の左側とは、対象の協働探査に協力することができないものであるということ、指の交叉が無理な運動であって指自身の運動可能性を超えており、したがって一つの運動企投の目標となることができないということである。[336]

人差し指と中指を交差させる運動は、通常、その一に指先が来ることが想定されないような位置にあるために混乱しているということになる。実際、目を閉じて、中指の指先に鉛筆の先を、人差し指の先に消しゴムを当てると、交差させた際には、鉛筆と消しゴムの実際の位置関係と逆の位置にあるかのように感じる。

対象の総合は、おのれの身体の総合をとおしておこなわれている。[336]

身体を単なる筋肉と骨の束ではなく、「私の身体」としてもつことの理論は、「知覚する」ということの理論にもなっている。

このアリストテレスの錯覚に関する箇所を読んでいると、とてもワクワクしてくる。その理由はおそらく、作品表現などにおける独自性、オリジナリティが、「まだ他の誰もやっていないこと」によって規定されるのではなく、あくまでも「私の身体」や「私の捉え方」「私の知覚」で規定されうるのだということを意味しているように読めるからだと思う。新規性と独自性とのスコープの違いが、なにか力を与えてくれている。

以上