2023年2月18日 大谷隆

範囲

第一部 身体
Ⅵ 表現としての身体と言葉 ・身振りの了解 ・言語的身振り、自然的な記号も、また純粋に約束的な記号も存在しない ・言語における超越性 ・失語症の現代的理論による確証 ・言語と世界とにおける表現の奇蹟 ・身体とデカルト的分析

前回の範囲

この章はとても興味深く、面白く読めたので、全体を通して自分なりの表現で「捉え直して」みたい。まず「言語の所有」という従来的な言語観を二つの側面でメルロ・ポンティは否定する。僕たちが言葉の意味というものを理解し、言葉を話したり聞いたり書いたり読んだりできるということは、

  • 語心像を持っているから、ではなく
  • 語の背後に思惟があり、思惟が語の意味を持っている、わけでもない。

前者は経験主義的な三人称的作用であり、語る主体がない。後者は主体はあるが「考える主体」しかない。いずれも、語自体に意味はなく、語心像や思惟が意味を持っていて語はその写しでしかないことになる。そうではなく「語は意味をもつ」。「言語は思惟を予想するのではなく、それを成就する。」語心像や思惟といった何物かが「語るに先だって」あるわけではなく「語るということが考えることなのである」。

ここでメルロ・ポンティが強調しているのは、言語の「誕生」のシーンである。つまり、言葉を「制定された記号」として見るのではなく、言葉が誕生し、それにともないその言葉の意味が生まれるシーンを見ている。

意味は言葉のなかに嵌め込まれ、言葉は意味の外的実存なのである。[301]

言葉は正真正銘の身振りである。身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。[304]

ここでいう身振りは、例えば手旗信号のようなルールに基づいたものではなく、怒ったり悲しんだりしているときに人がする様子そのもののことである。人は、自分が今まさに怒りにあることを「今自分は怒っているのだ」と「反省的に」とらえて、その後で他人にそれを示すために「怒りのポーズ」をするわけではなく、今まさに怒っているなかで何かしらの身振りとして、単にその身振りが生じる。怒りの身振りは万人に共通なルールに基づいているわけではないが、にもかかわらず他人に読み取られないわけではない。受け手が何を受け取ろうとしているのかと言えば、

私が最初に交信する相手は「表象」や思想ではなく、語る主体であり、ある一定のありようであり、彼がめざす「世界」である。[304]

私たちは、「どうやらこの人は怒っているようだ」と読み取るのであって、「このポーズは怒りのポーズだ」と見本と照らし合わせて判断するのではない。

ただし、言葉も身振りも記号的に「使われる」場合もある。しかし、それが言葉というもののすべてだとすると、「NGワード」的な特定の言葉が出た途端に相手の言うことを聞く態度を喪失するような言葉尻の取り合いや揚げ足とりに終始するような事態になりかねない。言葉が誕生するシーン、「原初的な沈黙」をやぶって言葉が生まれることをみなければならない。

しかし日常生活において使用される既成の言語は、明らかに表現の決定的な段階がすでに踏み越えられたことを前提としている。われわれがこの起源にさかのぼり、言葉のざわめきの下の原初的な沈黙を再発見しない限り、そしてこの沈黙をやぶる身振りを描きださない限り、われわれの人間考察はいつまでも表面的なものにとどまるであろう。言葉は身振りであり、その意義は一つの世界なのである。[305]

言葉が規範として使われているシーン、例えば医者の質問に「答える」ようなシーンだけを想定すると、「人間考察は表面的なものにとどまる」。言葉が表現として、例えば「自由に語る」ように産み出されるシーンもみなければならない。失語症患者のような言語の道具的使用だけが、言語ではない。

身振りの了解

この節でメルロ・ポンティは「了解」という語を使う。了解は、認識作用による判断である「法則の認知」とは違っている。

怒りの身振りにせよ、おどしの身振りにせよ、私はそれを了解するために、私みずから同じ身振りをしたときに体験した感情を想起する必要はない。[306]

了解は、例えば色見本と比較して、その色を青色と「判断」するようなものではなく(怒りを表すポーズをしているからいかっていると判断するようなものではなく)、その色そのものを青色だと捉える(その人の身振りからその人が怒っているようだと捉える)といったことで、過去の体験や外的ルールと比較することなしに、それをそれだとする。

また、怒りの身振りの背後に心的事実として怒りの実体があって、その反映として身振りがあるわけではない。「身振りが怒りそのものである」。

身振りの意味は与えられるのではなくて了解される。つまり、目撃者の作用によって捉え直されるのである。

この、「捉え直し(了解)」という実存主義的な超越と「認識作用」とを混同しないことがポイントになる。われわれは、語や身振りの意味を、認識作用によって知るのではなく、逆に、了解した結果、共通の法則を得るのである。

言語における超越性

ここで使われる「超越」も、メルロ・ポンティが286ページで定義した「実存が事実としての状況を引き受けて自己の責任のもとに置き、この状況を変容する運動」という意味だろうと思われるが、取り急ぎは、言語が他の表現分野、例えば絵画や音楽と比較された際に特別視されがちであることを指しているように読める。言語だけがもつ超越性、特権性のような意味で。この特権性をそもそもの意味でメルロ・ポンティは、認めていない。

画家あるいは音楽家は可能な限りのいっさいの絵画、いっさいの音楽を汲み尽くすことなど思いもかけないのに、どんな哲学者もいっさいの言葉を終わらせるような一つの言葉を夢みた[315]

「夢みた」とあるように、それは幻想で、なぜそんな幻想をもつかというと、言語は「同じ世界を目指しているという意識をもっている」からである。「同じ世界」つまり、三歳児の話す日本語も、哲学者の語る日本語も、同じ日本語であり、それは唯一の共通の同一のものであると意識されることで、この幻想は成立する。

同じ理由で、言語に対して逆特権性を指摘するとでもいうような言い回しがよく聞かれる。「バッハの曲やピカソの絵は、言葉では言い表せない」。しかし、同じ意味合いでいうならば「夏目漱石の小説も、松尾芭蕉の俳句も、言葉では言い表せない」。小説や詩も、一字一句それそのものでしかなく、他の言葉・絵・音楽等の表現に置き換えることはできない。言語に対して逆特権性を指摘したい発言者は、言語を普遍的なルールとしてみて、表現はそんなルールでは「言い表せない」と言うために、言語がその普遍性の代表として選ばれている。しかし、言語は厳密に普遍的な共通性を持ったルールと言えない。例えば、文学が誕生するシーンでは、言語はそのようなものではない。

音楽においてはいかなる語彙も前提されてはいない。意味は音の経験的な現前と結びついて現れる。それゆえ音楽はわれわれには無言のように思われる。しかし実はすでに述べたように、言語の明晰性は暗い基底の上にたてられているのである。もし探求を十分におし進めるなら、ついには言語もまたそれ自身よりほかの何ごとも語ってはいないこと、あるいはその意味はそれから分離されるものではないことがわかるであろう。それだから言語の最初のおもかげを探し求めるとすれば、与えられた世界に人間的な世界を重ねる情緒的な身振りのなかに求めねばならないだろう。[312]

ここで対立的な問題になっているのは、本来、「言語」と「絵画・音楽その他表現」の対立ではなく、「具体性・個別性・唯一性」と「普遍性・共通性・規範性」の対立で、言語というジャンルが丸ごと乱暴に後者に割り振られ、その他の表現分野が前者に割り振られてしまっている。言語があたかも普遍や規範や規則であるかのように見える側面があるが故に、その言語がその系列の代表を押し付けられてしまっている。「言語は意味をもつ」というとき、「意味」という言葉の意味を、言語が独占しているかのように思われているという誤解とも言えるかもしれない。

失語症の現代的理論による確証

ここでいう失語症は、医者の質問には「否」と答えられる患者が、動機なしで自由に喋る言葉を話すことができないという症状を指している。医者の質問に答えるような言語平面を「自動的言語の平面(経験主義的言語平面)」とすると、この失語症の症例の分析によって、経験主義的言語平面による言語理解は間違っていて、心理学による主知主義的言語平面に向かうことが想定される。「まず思惟があり、それを言語にする」というものである。しかしこれも否定される。

「まず、思惟は言語の結果ではない」(経験主義的な言語平面)が、だからといって「思惟を言語の原因としなくてはならないのだろうか」(主知主義的言語平面)。

意味が語に住まうのであり、言語は「知的過程の外的随伴者ではない。」それゆえ既述のようにわれわれは言葉の身振り的もしくは実存的意義を認めざるをえないであろう。[319]

言語が思想を表明するわけではない、とすれば、それは何をするのだろうか。

言語は、主体がおのれのもつ諸意義の世界のなかで立場を定める働きを示している。いやかかる働きそのものである。

「世界」という語はここでは単なる言いまわしではない。

「精神的」あるいは文化的生は自然的生からその構造を借り受けるということ、また思惟する主体は受肉した主体の上に基礎づけられなくてはならないということをそれは意味しているのである。

どのように自分が自分の「世界」を意味づけるのかというその働きそのものが言語である。「受肉した主体」は「生きている」。言語はこの「受肉」と同じで、外的な存在様式である「自然的生」を自己として受け入れ直すことによって、「文化的生」という存在様式を「生きる」。もともと外にあるものを自己の責任に「置いて」、自己の言葉として受け入れ直す、つまり「超越」によって言語は自己に受肉しつづける。

言語と世界における表現の奇蹟

実存主義的な超越、つまり、「実存が事実としての状況を引き受けて、自己の責任のもとに置き、この状況を変容する運動」[286]で、身振りの了解は説明される。

身振りの意味は、物理的ないし生理的現象としての身振りのなかに含まれているわけではない。語の意味は音として語のなかに含まれているわけではない。

人間の身体の自然的能力を超出し変貌させるもろもろの意義的核心を、自己に同化するということこそ、人間の身体を定義する特質なのである。

身体が新しい振舞に対して自己を開くのと、この振舞を外部の目撃者に理解せしめるのとは、ともに同じ能力によるのである。[320]

音として、つまり物理現象として、語に意味が含まれているのではなく、その物理的な音を、自己に引き受け直すことによって、意味が生じる。この自己への引き受け直し(超越)によって、他者の言語や振舞、すなわち「自己にとっては、外的な意義」を、「理解する」ことも可能になる。これらは同じ能力であり同じ現象である。

これはとても興味深い指摘である。なぜ、作家が描く、作家自身のことでしかないはずのことを、読者が知る「自分だけのあの体験」が描かれていると感じることができるのか。それは人が実存主義的な超越をおこすからであり、作家がまだ言葉になっていないことをどうにかして言葉にすることと、それを読者が読み取ることは同じ「超越」という能力だということになる。これは言われてみればそのとおりだと思うが、まさにこの、外部である他者から提示された言葉が、あたかも初めから自分もそう思っていたかのように思えるということ自体である。

身体が表現しうるためには、われわれに向かってそれが意味しようとする思想もしくは志向に、結局身体そのものがなるのではなければならない、という点が見逃されていたのである。[326]

外にあったものに「身体そのものが『なる』」。メルロ・ポンティの理論は、全て一つのプロセスで説明されているように思える。実存主義的超越がそれで、常に根底にその「もともと外にあったものを、自己に引き受け直す」という超越プロセスをイメージすると、とても理解しやすい。

身体とデカルト的分析

一方で、近代的思想の祖とも言えるデカルトはどのように考えていたのか。デカルトは、まず最初に、何もかもを「精神(mentos)」と「身体・物体(corpus)」に分離してから考えている。この二分法は、

  • 精神、意識、思惟の様態
  • 身体、物体、延長の様態

であり、この両者は完全に分離されている。

客体はすみずみまで客体であり、意識もすみずみまで意識である。

存在するという言葉に二つの意味が、そしてただ二つの意味のみがあることになる。ひとはものとして存在するか意識として実存するか、いずれかである。[327]

ものとして存在する様式は経験主義的=生理学的な身体による人間理解であり、意識として実存する様式は主知主義的=心理学的な精神とそれに従属する身体という二段構えの人間理解を生んだ。デカルト自身はこの分離をどのように「統合」したかというと、精神と身体の絶対的二分法の背後に「神」を「(非実存主義的な意味で)超越的」に置いて、解決した。

デカルトの徹底した二分法は、経験主義と主知主義を生み、それぞれの発展の契機となった。近代的な科学の基礎にもなった。メルロ・ポンティの実存主義的アプローチは、この両者を、そもそも実存的な自己の超越運動の一局面として、捉え直すもので、デカルト時点にまで戻って、人というものを再定義しなおそうとしている。

以上