2023年4月25日 大谷隆

範囲

第五部 知性の能力あるいは人間の自由について 定理二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二

ゼミ最終回

いよいよ最終回。

永遠の相について

スピノザ的な「永遠」という言葉の意味を再確認できた。

定理21

精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりすることができない。

定理22

しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。

通常、我々は、時間の流れがあることを自明(前提)とする。その時間の流れの〈中で〉、変化しない物や事を「永遠」と呼ぶ。しかし、スピノザはこの順序を逆に考える。

まず、永遠がある。神=全てが永遠である。その上で、時間や持続は、むしろ有限な存在であり、神が変状したものである個物としての人間の側にある。このことは、第一部の定義8にすでに書かれている。

第一部 定義8

永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。

説明

なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである、たとえその持続を始めも終わりもないものと考えようとも。

永遠性を時間性や持続性を前提に考えるのではなく、むしろ時間制や持続性を永遠性から導かれるものとしている。永遠性は、永遠なる神の定義からのみ必然的に出てくると考えれば、存在そのものであり、実体とはそのように存在する。こういった永遠は、時間や持続に先駆けてあるものであって、「時間や持続によって説明されえない」。

その上で、人間身体は有限だが、人間精神には「その中に永遠なるあるものが残存する」とする。

定理23

人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中に永遠なるあるものが残存する。

人間も神の変状であるから「神の本質そのものを通して」考えられなければならない。「存在」というもの自体が本来、神(実体)の永遠性そのものである。

以上のように、人間の限界(たとえば死)を、神の本質の中に見出すことは、とても大きな宗教性を感じるが、通常の宗教とは大きく違っているところもある。「救い」ではなく「倫理」である。

信仰・信条・信念に依存しない倫理

「幾何学的秩序に従って論証されたエチカ」というタイトルについて改めて考える。第5部後半で再び第一部神についてを強く意識する。

人間は有限の存在であり、いずれは死んでしまう。しかし、ある人が「存在する(した)」という事実自体は、神の永遠の相から、神を原因として表現される。

「人が死ねば神の元へゆく」という主張は多くの宗教において唱えられるが、大抵の場合は、それと引き換えに「信心」「信念」「修行」などの対価性が求められる。あるいは、特定の民族への「えこひいき」的な前提条件がある。

しかし、スピノザはそもそも人は神の変状で、永遠の相を通して考えられるとしているので、そういった前提条件であったり、「信」であったりを問わない。幾何学や物理や数学の法則がそうであるように、そうである。

この「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」1であるところに、タイトルの「倫理」、あるいは「非倫理・超倫理」が置かれている。

倫理と言うと、ある固有の信念体系を思わせる。それは個別的であったり時代的であったりする、善悪判断の基準のような意味になるが、スピノザは、そのような「個別性」や「時代性(時間性)」よりも前に、幾何学的に証明可能な普遍的な「全て」があり、そこからむしろ個別性や時間性が導かれるという体系を、倫理と呼んでいる。この倫理は、特定の教義や信念体系に定義づけられた善悪判断基準という意味での宗教を遥かに超えている。善悪というもの自体が、人間の固有性、有限性ゆえに二次的に発生するものであり、スピノザの神そのものはそれ以前に存在している。

言葉の意味のレイヤーが一段高い

「何が先にあり、何が後になるか」といったことがスピノザには逆に見えているというよりも、通常の意味の範疇よりも、一段と大きな意味として言葉を見ている。

例えば自由はどうなるか。何かをやろうとしたときに、それができる条件が外的に整っているとき、「自由にできる」と思いがちだ。選択肢が予め有り、それを「選ぶ」ことが自由だと思いがちだ。しかし、自由とは、むしろ、なにかしらの状況を自らで整えることへのアプローチの広さではないか。状況が整ったとき、やろうとしていたことができるのは、むしろ必然であり、強制ですらある。

第一部定義7

自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。

「与えられた自由」というのが語義矛盾しているという、小さなレベルの矛盾を徹底的に考え抜くことで、むしろ「自由」により大きな意味を与えている。

照らされた領域に浮かび上がる個々の傾向のことを「倫理」と呼ぶのではなく、それを照らしている光と照らされた場所のことを倫理と呼ぶような大きな言葉のイメージを感じる。

以上

  1. 一遍上人(時宗)の悟り。