2023年3月7日 大谷隆

範囲

第五部 知性の能力あるいは人間の自由について 定理一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇

科学的な態度の元

スピノザは「科学的」な態度を勧めている。スピノザや同時代のデカルトによって近代科学は始まったのだから、順序としては、「科学が」スピノザやデカルト的な態度で発展したということになる。

「原因不明の怪現象」に怯える人々が、原因と結果の明瞭な結びつきを知れば混乱はなくなる。この原因と結果の一意な結びつき(自然法)が科学思考を支えている。例えば、「なぜ空が青いか」を、「物理学的に」説明されることで、唯一の正解だとして納得する。理性とは、科学的に説明される結びつきを、つまり自然法を「知る」ことになる。手品は種がわからないうちは、驚きの感情を掻き立てるが、種が分かれば「なあんだ」と腑に落ちる。これらは科学的に「正しく」説明されることであり、近代では科学が正しさを担保している。この世界観では、理性と感情は対立し、理性的であることは、混乱しないことでもある。

なぜか感動を覚える「エチカ」

「エチカ」はそのような科学的、より厳密には「幾何学的に論証された」もので、手品など各種エンターテインメントや文学・芸術といった「感情」が「揺り動かされる」ことを良しとするものとは対局にあることになる。

スピノザの記述は、「無知で」「物事の道理をしらない」「混乱した」人間たちに対して厳しい。こういった語り口は、往々にして「自分は彼らとは違うが」という自己疎外を前提にしてしまう。自分を彼らから切り離し、安全な位置に置いて、対象としての彼らについて話す、ということをしがちだ。その結果、発言者自身は「言っている内容の正しさ」に自己を同一化させ、安全な地位に引きこもる。正しいことを言っている自分は彼らとは違って正しいという意識になる。そして、こういう意識が繰り出す言葉や文章は、内容の正しさの価値の高さ以前に、その発言者の意識の持ち方の低さを露呈する。当然、そういった物言いに通常「感動」は覚えない。

「エチカ」は、この自己疎外の危機に陥りがちな内容と文体を取っているにも関わらず、そこに沈んでしまわずに、再三浮上し、ある種の感動すら与えてくれる。自然法をよく知ることで、感情や混乱から離れられる、というだけでは「エチカ」がもつある種の魅力を捨ててしまうことになる。例えば、

定理一八 何びとも神を憎むことができない。

定理一九 神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない。

定理二〇 神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだけ多くはぐくまれる。

この三定義の展開は、これまでの厳密な論証内容から整然と明瞭に導かれているにも関わらず、読んでいるだけで、ある種の感動を覚えてくる。記述スタイルを「幾何学的」ではなく「文学的」「散文的」にしてみると、

何びとも神を憎むことができない。神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない。神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだけ多くはぐくまれる。

クリアで冷たい硬質な印象を与える論証的記述で組み立てられた厳密な論理体系の中に依然として在りながら、温かさが湧き出してくるような場所になっている。

スピノザは、自然法を知っていくことで喜びが増すとして、そのような方向へ行くことを勧めているが、このとき、自分自身を「人間」から分離していない。自分「だけ」が、「神」を目指すことができたり、「神に愛されている」、などということが、そもそもあり得ない論理体系になっている。神=自然という「唯一の正しさ」を肯定しつつ、そこへ向かうことが「誰にでも可能」で、しかも、その数が増えるほどに、神への愛は増す。だからこそ、自分を社会から切り離し、安全に隔離された滅菌室から社会を論じるような小物感がない。

感情として取り上げられる各項目、例えば「妬み」「嫉妬」「蔑み」といったものを「悪」としつつも、彼自身が「自分はそのようなものとは無縁で、理解不能」といった論じ方をしていない。それらの悪感情に対して、自分はそうではない、といった距離のとり方では到底言い切れないほどの精密さで取り上げている。

スピノザは、クリアで明瞭な論理体系を得ているが、それは薄暗くドロドロとした現実社会から目を背ける方向で得たのではなく、むしろ現実社会をつぶさに見て、体験することで達成しているように思われる。自分を社会や他者から切り離して、「自分」や「自分たち」だけをクリアにするのではなく、すべての人に共通の方向として見出している。このあたりに、不思議な感動の源泉があるように感じる。

「読む」とはどういうことか。國分功一郎「スピノザ」を読み始めて

2年間のゼミを通して、僕たちなりにスピノザと出会ってきた。その結果、僕なりのスピノザ像のようなものが少しずつ出来上がってきた。スピノザが記述した体系を読書体験することで、大げさに言えばスピノザと暮らしを共にしてきたといった感すらある。そろそろ、僕たちとは違うルートでスピノザと出会っている人にはどのようにスピノザは見えるのかに興味が出てきた。そこで、ちょうど発行された國分功一郎「スピノザ」を読み始めている。

つらつらと読みはじめて、第一章の「読む」ということについての記述で興奮した。

ある哲学体系への批判は、ほとんどの場合、その哲学体系が言葉にしていない諸前提への拒絶反応に由来するものだ。逆に、ある哲学体系を信奉するとは、その体系によって自身を支配されてしまうことである。スピノザがここでやっているのはそのどちらでもない。スピノザは読んでいる。受け入れつつも支配されず、体系の難点に目をやりつつも体系の中に浸る。[42]

そうそう、こういうことだ。「読む」ということがとてもうまく書かれている。國分さんの記述を読むことで、読むということがもう少しうまく言えてくる気がする。

読むというのは、書いてある言葉を自己に「一致させる」ことではないし、自己とは異なる対象として自己の外で「取り扱う」ことでもない。自己の外側にある「書かれた言葉」を自己の元に受け入れて、その言葉の世界を自己によって作り上げ、その世界において自分が自由に振る舞うことだ。他人の言葉であったものを、自己に、自己として巡らせるようなことが読むこととなる。

能動態と受動態の対立軸とは異なる視野にある中動態は「するか、されるか」ではなく「主語がその座にある」かどうかが問題となる。中動態に関する本を書いた國分さんらしい鋭さで、「読む」ということを、支配と否定、信奉と拒絶、合致と違和の二分法から救い出している。スピノザを、そういう意味での「読む人」として捉えたこの本は、面白いはず。

スピノザが、人間を拒絶しないで、人間の従うべきクリアな体系を記述したということと、「読む人」であるということは通じるものがあるようにも感じる。

以上