2023年2月7日 大谷隆

範囲

第五部 知性の能力あるいは人間の自由について

序言
公理
一、二

免疫

家族で病気になって改めて免疫というものについて考えた。免疫とは一般に、

生物が健康な状態で生きていくためには外敵の侵入により個体破壊されたり、外敵が寄生し続けないように、自己の細胞と自分のものでない(非自己)の細胞を見分ける必要がある。この見分ける仕組みが「免疫」である。(日本がん免疫学会サイトより)

ウィルスなどの外敵を攻撃し排斥するシステム全体も含んで免疫といったりもするが、コアになる考え方は「自己と非自己を見分ける仕組み」のことである。これが見分けられなければ攻撃や排斥は不可能である。

通常、免疫といった場合は、肉体内部で起こることのみをさしている。言い換えればもっぱら生理学的な範疇における語彙として用いられる。しかし、もう少し範囲を拡大してみることができるのではないか。

たとえば「ウィルスが手に付着しているので、外出から帰ったときに石鹸で手を洗う」といった行為も、一つの免疫システムと考えることはできないだろうか。外敵であるウィルスを手を洗うことで選択的に除外し、自己である肉体深奥への侵入を防いでいる。また「寒気を感じたので、一枚厚着した」といった行為や、「暖房で室温を上げた」といったことも、免疫機構と同様の成果を得るために「自己がなす」ことだとすれば、免疫と呼べるかもしれない。

これは免疫システムの拡大解釈だが、この場合拡大されているのは、「自己」の概念であるとも言える。通常、手を洗うための「水道」や「石鹸」、あるいは「上着」や「エアコン」は「自己」には含まれないが、感染症への対策といった思考領域においては、それらを「自己」の一部として取り入れ、自分自身によって自己を防衛している。

つまり、最初に挙げたように、免疫という問題は、やはり生理学的な意味においてのみ「自己と非自己」をどう区分するかという領域だけにとどまるのではなく、より広範囲に「自己と非自己」という問題そのものを考えることだすれば、一般的な感染対策すべてが実は「免疫」の問題に帰着する。

僕たちは通常、服を着ていて、裸の肉体を他人に見せることはほぼないが、だからといって、家族以外の人間が「本当の自分(生身の肉体)」を見ていない、とは感じない。服を含めて自分というものを見られていると感じている。つまり「服」も「自己」に含まれていると無自覚的に感じている。これと同様に、「自己」というものは「単なる肉体」のことではなく、もっと柔軟で、一見外部とみなせそうな「物」や「環境」も、ときに含んで「自己」をなすと考えたほうが、実感に合う。「自己」とは、肉体や精神の二分法によって語りうる範疇をそもそも超えているのではないか。

このこととスピノザ「エチカ」との関連を示していく。

スピノザ以外の人が何を一番の問題にしたか。

第五部序言は、主にストア学派とデカルトの考え方について書かれている。簡単にまとめると、ストア学派もデカルトも、まず第一の問題として「精神と肉体」の区分を考えている。

ストア学派、デカルトは、この二分法において、精神の優位性を主張している。

(デカルトは)魂つまり精神は松果腺と呼ばれる脳の一定部分と特別に結合していること、この腺を介して精神は身体内に起こるすべての運動ならびに外部の対象を感覚すること、そして精神は単に意思するだけでこの腺を種々さまざまに動かしうること、そうしたことを主張している。

これはストア学派、デカルトに限らず、西洋哲学の伝統ともいうべきもので、まず最初に「精神(mentos)」と「肉体(corpus)」という二分法から始めるという、思考の原理のようなものがある。

それに対して、スピノザはどうか。スピノザも西洋哲学の伝統に従い、精神と肉体とを重要な要素として取り扱ってはいるが、しかし、スピノザが最も重視したこと、何もかもの最初に考えていることは、この二分法とはいえない。

自己と非自己

スピノザが「エチカ」に置いて、最も重視したこと、そこから考えをはじめたことは、「自己と非自己」ではないだろうか。

第一部 定義一

自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。

また、妥当な原因と部分的原因をどのように区別したか。

第三部 定義一

ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。

そこから能動と受動をどのように区別したか。

第三部 定義二

我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、言いかえれば(前定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあるいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。

この部で論じようとしている「自由」もまた、この能動と受動、自己のみによる原因と他を含む原因との区別が最大の問題とされている。

スピノザは、精神と肉体の二分法を議論の前提に取らず、自己と非自己の区分を前提にし、「自由」を論じようとしていると予測できる。ここでいう「自己」はもちろん「自分の肉体」のことではなく、また「自分の精神」でもなく、従来的な意味での、生命体個体の「肉体と精神」という枠組みを超えた「自己」という認識の変状状態とでもいうもので、それは冒頭の拡大された「免疫」を考える際の「自己」にも通じるような柔軟性を持っている。

スピノザは、この従来的な枠組みとしての自分の肉体と精神を超えた自己を最終的に「神」にまで拡大することで、人間の自由と能力を広げていけると考えているのだろう。

以上