2023年1月17日 大谷隆

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第四部 人間の隷属あるいは感情の力について

定理六一、六二、六三、六四、六五、六六、六七、六八、六九、七〇、七一、七二、七三 付録一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二

1 思考の深度に応じて思い起こされること

あまりまとめずに気になったところや興味深かったところを書き出してみる。

定理六一 理性から生ずる欲望は過度になることができない。

「理性から欲望が生ずる」ということ自体も興味深いが、さらにスピノザ的な理路が特徴的に見えてオモシロイと思った。

  1. 理性は自己のみを原因とする妥当なもの。 「人間の本質は人間の本質のみから妥当に考えられる」(同 備考)
  2. それが「過度」である、つまり自分自身の本質を超え出てしまうのだとしたら、矛盾。
  3. だから「過度になることができない」。

ここから逆も言える。もしも欲望が理性ではなく感情から生ずるのだとすれば、その場合は、 自分以外を原因に含むのだから、自分を超え出ることがある(過度になることがある)。

スピノザ的には、人間の欲望は過度にならないほうが良いと薦めているのだろうが、自分を超え出ることにむしろ可能性を見出すとすれば、自分の欲望に対して自分以外を原因に含めたほうがいいとも言える。

例えば、愛は自分以外(他者)を必要とし、よって自己を超える。こういう、言われてみればそうだと思うような、身近でありながらも深いと感じる考察が、意外な前提(第一部)から整然と「幾何学的に」導かれてくるところが面白い。

定理六二 精神は、理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける。

続く定理六二。「理性の指図に従う」というのは「神の法則に則る」ということになる。神は「永遠」であり、過去、現在、未来といった時間を問わず一定(同様)である。つまり、理性の指図に従うというのは、物理法則に従うようなもので、いつも同じ結果になる。時間性を持たない。

理性の指図のもとでは、現在の自分よりも未来の自分のほうが何かしら幸せになっている、といった時間的変化は生じない。もしも、自分や世界の未来への可能性を求めるのであれば、うつろい変化する自分という現実存在を志向する方がよいのではないかと思わせる。永遠・無限に変化しないということは、「生きている」ことからの離脱のようにも思える。

ここだけ読むと、永遠に変化しないということはある種の牢獄的状況のようにも思えるが、定理66では、理性の導きに従う人は「自由人」、感情ないし意見のみに導かれる人間を「奴隷」と分類される。

定理66備考 すなわち前者(感情ないし意見のみに導かれる人間)は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者(理性に導かれる人間)は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。

スピノザの「自由」が独特の意味合いを帯びていることがわかる。

数学的に「1+2」の答は常に「3」である。この普遍的な法則がスピノザの理性だとすれば、スピノザの言う「自由」は、この数学的な普遍法則の「足し算」そのものことを指している。「足し算」を知れば、どのような数同士であっても、例えば「2+5」も「五十億と一人」も答が出せる。このようにすべての足し算問題に対して解答できうることを指して「自由」と読んでいる。もしも、全世界の法則を解き明かすことができれば、全ての「問題」は、その知性の持ち主は「自由に」解答を導ける。

一方「足し算」を知らないものは「1+2」を答えられたとしても、「五十億と一人」には「誤った答(例えば文学的な答)」を出すかもしれない。これが「奴隷」だということになる。

もう生きているはずがない状況の人間を、二次災害の危険を犯してまで探し回ってしまう、といったことも「感情の奴隷」的な状況だろう。それはそうだろうと思うが、「自分の子や親」がそのようになった、「自分の」場合、「普遍的解答」にどれほどの意味があるのかとも思う。

こういった「庶民的」疑問に対して、スピノザ的思考は、以下のようにとても「マッチョ」に応答する。

定理67 備考 自由の人すなわち理性の指図のみに従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されない(この部の定理六三により)。むしろ彼は直接に善を欲する(同定理の系により)。

定理68 証明 自由なものとして生まれかつ自由なものにとどまる人は妥当な観念しか有しない。またそのゆえに何ら悪の概念を有しない(この部の定理六四の系により)。したがってまた善の概念をも有しない(善と悪とは相関的概念であるから)。

定理69 系 自由の人は戦闘を選ぶ時と同じ勇気ないし沈着をもって逃避を選ぶ。

死を恐れず、善も悪もない。パニック的逃避も恐れての逃避もない。

庶民的に読めば、こういった人の方がよっぽど「超人的」つまり「人を超え出ている」気がしてくる。極めつけに、

定理七〇 無知の人々の間に生活する自由の人はできるだけ彼らの親切を避けようとつとめる。

といった領域にまで到達する。彼らとは「感情に導かれる人間」。一見、どういうことかと思うが、証明を読めば、

自由の人は他の人々と交友を結ぶことにはつとめるが(この部の定理三七により)、しかし彼らに対して彼らの感情から判断して同等とされるような親切を報いることにはつとめないでむしろ自己ならびに他の人々を自由な理性の判断によって導こうとし、彼自身が最も重要として認識する事柄のみをなそうとつとめる。ゆえに自由の人は、無知の人々から憎しみを受けぬために、そしてまた彼らの衝動にでなく単に理性のみに従うために、彼らの親切をできるだけ避けようと努めるであろう。

無知な人の親切は、自分がした親切の評価を、自分の無知さの範囲で誤って判断してしまう。自由の人は、そのようには判断しないから、場合によっては無知な人から憎まれてしまう。親切を避けるにしても気をつけないと、無知な人を憤らせてしまうかもしれない。といったように、なかなかの超人思想だ。

そして、さらに、

定理七一 自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。

といった仲間内のちょっと変な雰囲気になっていく。

僕自身を含め、多くの人の人間観とはかなり乖離していると思われるがここまで徹底していれば「一理ある」とは思わせるものがなくはない。

例えば、國分功一郎、千葉雅也「言葉が消滅する前に」で、

(千葉)小説、苦手なんです。人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、トラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから物語なんて必要ないわけです。すべての小説は愚かなんですよ。だから僕は小説を読む必要がないと思っているの。でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それは素晴らしい。

「バカ」や「魂のステージ」といった語彙は、なかなか強烈で「そうね」とは読めないところがある。(きっと、スピノザは千葉雅也のように「炎上」していたのだろう。)

ただ、千葉雅也の「小説」と「詩」に関する視野は、感じるものがある。一般的な「小説」が読者に感情移入を求めたり、小説は逆に「物語としての起伏的演出」を求められたりすることへの辟易さは実感として僕にもある。小説が読めなくなった時期はまさにそういった諸々を受け付けなかった。「物語に浸る」ということ自体を受け付けない。

その後、感情移入や物語的感動を求めてこない(必要性を感じさせない)保坂和志のような小説もあることを知って、僕はもう一度、小説を読めるようになった。文の可能性を少しでも切り開いていこうとすることで、小説としてしか呼べないものになることがあって、それもまた小説だと思う。千葉の言うような愚かかそうでないかという視点とは少し違う気がする。

2 「わかりあえなく(理性)」「共感できなく(感情)」ても共に生きることは面白いと思う。

付録の19、20あたりの性に関する部分がある。しかし、果たしてこれで本当にセックスができるのか、と思わせるほど「性」というものがクリーンに扱われている。

洗濯してあるものより「洗濯していない靴下」の方が「良い」という、「それ以外の人」にとって全く価値をなさない無限の迷宮的な多様性を持っているのが「性的状況」で、これは「理性」と対立させて「衝動」や「感情」の側に無造作に投げ込んですませられるものではないように思える。人間の「性」はもっと緻密で構成的な「迷う宮殿(迷宮)」的なものでもあると思う。そこに性というものの「良さ」があるのではないか。単なる「肉体的(生理学的)快楽刺激」ではなく。

ところで、スピノザは(意外にも)、「人間が集団としては、どのように生きれば幸福になれるか」を強く志向したのではないかと思う。この部の終盤、スピノザは「集団としての人間の理想」の基礎的条件として、自由人の理性=自然の法則=国家の法律というところまで一直線に走ってしまう(定理73)。これはちょっと短絡的だと現代の僕には思える。超人的な思想を持つものが、その合理的な「唯一の」法則としての法律に従って生活すれば、それが人間集団として最善であるというのは、人間の個人性のゆらぎを無視している。仮に誰もが「美味しいもの」が好きだとしても、「美味しさ」は様々だ。性的状況はその最たるものだろう。

しかし、スピノザの考え自体はかなり深いところにあるから、その深度に応じて、僕に思い起こされるものも深くなっている。

「他人のことを考える」ということを直ちに「他人と同じ気持ちになる(共感)」としてしまうことには弊害がある。共感に弊害があるのではなく、共感というものを他人との関係性において絶対視してしまうことに弊害がある。それと同様に、「わかりあえる」ことを絶対視するのも危険ではないか。

他人が何を思っているのかよくわからなくても、他人のことを考えたり、共にいることはできる。そもそも他人とはそういうものだと思う。他人を自分の理性や感情の対象としてしまうのではなく、対象化できない「よくわからない、そういう存在」として存在を肯定する共存的なあり方のほうが、僕としては「他人とともにいる」ことである。そういうよくわからないし、同じ気持ちになれるとも思えないにもかかわらず、なぜか「同じだ」と思うところに「経験的でマジカルな言語的疎通」(文学)があって、これは「意味伝達による意思疎通」(理性)とは異なるものだと思う。スピノザに文句をつけるとするならば、「わかりあえる」ことが正しく、「わかりあえない」ことは誤りであるというそもそもの価値の序列についての前提的な疑問だ。

今回のレジュメは、「エチカ」の表面的な記述への応答に留まらず、何が思い起こされるかを重視した。書かれている意味以上に、思い起こされるものの方に興味が強いが、それも書かれているものを読んだから起こったことである。この現象こそがわかりあえないにも関わらずにもたらされる文学的価値であり、スピノザの思考が僕に与えてくれた変状だと思う。

スピノザとはわかりあえないかもしれないが、スピノザと共に生きるのはおもしろい。

ここまで読んで僕なりにスピノザの体系の場所が踏み固められてきたように思えるので、そろそろ他の人のスピノザ像に興味が出てきた。ちょうど手頃に読めそうな本が出ていたので、読む予定。スピノザを「読む人」と捉えている。興味深い。

以上