2023年10月27日 大谷隆

範囲

緒論 古典的偏見と現象への復帰

Ⅳ現象の領野

緒論の最後、ドラマチックな展開

この「現象の領野」で緒論が終わり、この後は本論となる。本論は緒論で述べられたものを一つ一つ丁寧にたどり直すような構成になっている。つまり、緒論は著者の一つのアイデアを一旦まとめ上げたもので、その分足早な印象があるが、これはこれで一つの完結性を持っている。緒論は現象の領野を措定して終わるということになる。

メルロ・ポンティは、現象の領野を、何であって、何でないかを記述し、哲学的な諸領域から区分している。

現象の領野と科学

ここでいう科学とは、経験主義と主知主義が相互補完的に共犯している超越論的哲学体系である。

1段落目 p.103-106

科学では、純粋な〈quale〉(性質)を探求することが目指されている。

純粋の〈quale〉は、世界が一つの見世物であって、自己の身体が機械であり、そして公平無私な精神がこれらを冷静に認識する、という場合に、初めてわれわれに与えられるであろう。[104]

「世界が一つの見世物」とは客観的世界があってそれを「外から」観察することができるという意味で、「自己の身体が機械であり」とは経験主義的に客観的世界に存在する対象からの刺激を受けとっているという意味で、「公平無私な精神がこれらを冷静に認識する」というのは、その刺激を解読し認識する普遍的な(誰のものでもない)機構として主知主義的な精神があるという意味になる。経験主義も主知主義も、客観的世界を前提とし、さらに、その外側に超越論的な普遍的視点が存在することを暗黙のうちに前提している。

簡単に言うと、普遍的で唯一の純粋意識が、自分とは別に存在している「見世物的世界」で生じていることを観察し、その観察で法則得るのが科学である、ということになる。

しかしそもそも「感覚する」とはそういうことだろうか。感覚することで初めて、見えている世界が、そのようなものとして世界を構成できる。ここでいう視覚は、単に、光が受信され、画像が写った、ということではない。荷重を受けずにその場に静止しているものと、荷重を受け力の釣り合いで静止しているものとを、人間の視覚は見分ける。それを「感覚する」という。

感覚するということは、世界をわれわれの生活のおこなわれる親しい場所としてわれわれに現前せしめる、世界とのいきいきとした交信である。[104]

2段落目 p.106

経験主義の「感覚」と主知主義の「判断」が、明晰な概念として提示されうるのは、客観的世界が予め存在しているという前提があるからにすぎない。

「感覚」と「判断」とは、いずれも同時にその見かけの明晰さを失ってしまったのである。それらが明晰であったのは、ただ世界という先入主のおかげにすぎないことに、われわれはすでに気づいている。[106]

「知覚しつつある意識」には、世界は予めあるわけではなく、これから構築される。

A 今まさに自転車に乗れるようになりつつある意識 B すでに自転車に乗れるようになっている意識 において、「自転車に乗る」ということはどのように記述されるだろうか。

Bは、「感覚」と「判断」によって説明する。 「ハンドルを握って、バランスをとって、ペダルを踏み込むことで走る。左に曲がるときはハンドルを左に、右に曲がるときは右に曲げる。」

しかし、Aはどうか。

Aにとっては、「ハンドルを握る」も「ペダルを踏み込む」も「バランスをとる」も「ハンドルを曲げる」も、今まさに意味づけられようとしているところで、それらを明晰に知っているわけではない。それができるようになったとき、それらの意味が完成する。このAの立つ場所が、現象の領野である。

Aにとって(Aとして私が記憶を呼び覚まして記述すると)「自転車に乗る」ということは、それができそうになるとき、今までの自分の体の移動感覚では知り得なかった浮遊感が生じ、手や脚といった体の各部は、今までしたことが無いような連携を強いられ、全体として未知の体感と認識が生じ、不安と希望、恐怖と愉悦が爆発するように押し寄せてくる、といった個人的な体験と気分の記述となるだろう。これが、現象の領野における記述である。

3段落目 p.106-110

「数世紀のもの間(デカルト以降?ー17世紀、あるいはカント以降?ー18世紀)、科学と哲学は、知覚にもともと備わる次のような信仰によって、支えられてきた。」[106]

つまり知覚は、いっさいの現われの根拠が存する真理自体を目標として、これに向かって開かれている。[106]

科学と哲学は、誰にとっても共通で普遍的な法則があることを「信じ」、知覚はそれをこぞって探求してきた。このような知覚に基づいた科学的思考からは「生きた身体とといえども免れることはできなかった」。

つまり、「生きた身体」は生理学的な分析対象となり「第三人称的な諸過程に還元」された。それによって、例えば、我々の身体は食べ物を消化し、栄養を摂取し、血液を循環させ、筋肉を使って運動する物体であるといった類の説明がなされる。つまり、「生ける身体」を「内面のない一つの物体に変えなくてはならなかった」。

その結果、生理学はもう一つの科学として「内面」を記述する心理学を要請する。

生ける主体の感情的。実践的な姿は、精神ー生理学的機制に吸収されてしまった。

生理学と心理学によって科学的に「私」も一つの対象とされてしまった。こうなると「他人」を知覚することはありえない。「私」にとってその他のものは全て生理学的刺激か心理学的刺激の発生源であり、生理学的行動と心理学的行動の目標物でしかない。

4段落目 p.110-111

しかし、この科学を支える哲学は崩壊しつつある。

まず物理学は、全ての物体を扱うことができないことを露呈した。たとえば有機体も、社会(観察結果がフィードバックされてしまう)も扱えない。

《我ー他人ー物》というシステムがあることに科学は気づく。

現象と「意識の事実」

1段落目 p.112-115

現象野と「内的世界」の違い。

この現象野はいわゆる「内的世界」のことではない。「現象」とは「意識の状態」もしくは「心的事実」ではない。[112]

メルロ・ポンティは、現象野を心理学が扱う領域である「内的世界」や「意識の状態」「心的事実」などと区別する。心理学が扱うこれらもまた、特殊な型の対象ではあるものの、科学の対象にされてしまう。特殊な型とは、「主観と客観がとが一体となり、認識が対象との合一によって獲得されるような「内的知覚」もしくは内観によってのみ捉えられる」もの。

この特殊な型の対象について考えることは、現象的なものへの復帰ではない。

何とも言い表すことができないような主観と対象との合致において捉えられるものではない。[113]

現象の領野で起こっていることは「主観と対象との合致」などといったややこしいものではなく、誰しもが知っている「あの」ことである。

判じ絵の木の葉模様のなかにうさぎを発見したり、ある運動のリズムを「捕え」たりしたとき、誰でも一種の適合を経験するものであるが、こういう適合によって、対象や身振りの感覚的形態は「了解」されるのである。[113]

ルビンの壺のようなだまし絵などで、「そう見える」とき、一気に全体がそう了解される。そして、この了解は、了解した途端、それ以前のプロセスを忘却して、そうとしか見えないかのようになる。

知覚が自己自身に対して自己の姿をかくす弁証法が存在するのである。

木の葉模様から兎を見つけると、兎が見えなかったときの自己は隠されてしまう。

しかしながら意識がそれ自身の現象を忘却し、こうして「物」の構成を可能ならしめることに、その本質が存するにしても、この忘却は単なる不在ではない。それは意識が欲するなら思い浮かべることもできるようなあるものの不在なのである。 いいかえれば、意識は現象を呼び戻すことも可能であればこそ、それを忘却することもできるのである。 現象がものの揺籃であればこそ、意識は物のために現象を捨てて顧みないのである。

何かがそれだとわかると、わかったとたんに、わからなかったときのことを忘却する。しかし、その忘却は、思い出そうとすれば思い出せる忘却である(現象への復帰)。意識は物の認識を得るために、それを得るための現象を捨てることを顧みない。

2段落目 p.115-116

内観の心理学と現象学的心理学の違い。

内観の心理学とは、古典的な心理学を指す。

内観の心理学者は依然として意識が存在の一区域だと信じて、物理学者が彼の区域を探求するのと同じような意味で、この区域を探求しようと決意

する。つまり「意識」なるものが存在するのであれば、その「意識」を研究対象とし、その法則を見つけ出せば良いと考えた。このとき、「意識」はその周囲に世界があり、そこから対象化されたものとして捉えられている。これは、物理学が世界の中にある物体を対象としその挙動を研究するのと同じである。物理学が「機械的なエネルギー」を根拠にしたように、内観の心理学は「精神的なエネルギー」を根拠にした。

物や意識が、予め存在している世界の中にあるということが前提されている。この世界を内観の心理学は問題にしなかった。

しかし、現象学的には、意識の周囲にあるとされる世界自体が、実は意識されることによって、そうある。

現象野と超越論的哲学

1段落目 p.116-122

したがって心理学的反省はひとたび始められると、それ自身の運動によって自己を超出する。[116]

本来、「私の心」の問題としてしか考えることができないはずの心の問題、「主観と客観とが一体となったもの」を考えるはずが、それが開始された途端、客観的存在としての無人称的な「心」という対象の問題となってしまった。つまり、「心」という対象がどのように振る舞うかという普遍的な法則を探すことになった。

こうして「現象野は超越論的領野となる」。「私」を抜け出た純粋意識(省察する自我)が、対象として、「私の心」を分析することとなる。

省察する自我という唯一の真実の実体しか存在しないことになろう。[117]

「私の経験」の全ては、隅々まで、この省察する自我によって明瞭に見られるはずのものだとされて、心理学はそれを目指す。

しかし、こういったことに対して「現象野は原理的な故障を申し立てる」[117]

われわれが望むならば、反省を普遍的な理性への単なる復帰と考えるべきではない。つまり非反省的なもののうちに、前もって反省を実現させておいてはならない。   反省は、それ自身、非反省的なものの事実性を分有する創造的な作業であると考えられねばならない。

反省することで、私が私から抜け出て、省察する自我となり、無人称的な意識である理性へと向うのではなく、反省して省みる先(あるいは元)である「私」が、事実を捉え、事実を世界の中に在らしめるという創造的な作業になる。

それゆえ、いっさいの哲学のうちでただ一つ現象学だけが、超越論的領野について語るのである。

「領野」である以上、唯一の普遍的意識がある「どこでもない地点」に回帰するのではなく、ある広さをもった場所である。

この言葉は、反省が、世界全体と、展開され客観化された多数のモナドを見渡すことは決してできないということ、つまり反省は部分的な展望と有限な能力しか持ち合わせていないということを、意味しているのである。

「私」からは全てを見渡せない場所、それ以上分割できない単位としての複数の「他人」が居て、その他人の内部は見ることができない、そのような場所に反省によって戻る。

すなわち存在の意識への現出を研究するのであって、その可能性をあらかじめ与えられたものとして前提してはいない。

カントの意識(超越論的意識)は、一つの「存在」ではなく、「統一」もしくは「妥当」であるので分割できない。たった一つの意識であり、誰の意識かは問われない。だから、カントが他人の認識を問題にすることはできない。

哲学の中心は、

反省の永続的な短所のなかに、そして個人的生が自己自身について反省し始めるこの点に、存在するのである。

どこにもない超越論的意識の視点に哲学の中心があるわけではなく、複数の個々の「私」が反省し始める点にある。

2段落目 p.122-123

自然的態度、つまり「目に見えるものや知覚認識できるものが客観的な実体として存在する」という状態から少し考えを進めると、必ずしも知覚・認識できるものがそのまま実体として存在するわけではないことがわかる。

日本人には(日本語圏には)「お湯」と「水」が存在するが、英語圏には温度の違う「水」があるだけで、お湯は存在しない。アイヌ語には「ワッカ」と「べ」が存在するが、日本語には飲めたり飲めなかったりする「水」があるだけだ。

自然的態度から考えを進めていくと、一旦超越論的意識を経由する必要がある。日本人にも英語圏の人にもアイヌ人にも共通な「水」についての普遍的科学的言説が目指される必要がある。しかし、その先に、あるいはその前に、現象の領野はある。

心理学を経由することで、超越論的意識の問題をクローズアップすることができた。主体とはなにか。「省察する自我」すなわち誰のものでもない主体といった、主体ということの意味を隠された主体の問題を明らかにすることで、本来的な主体である「私」へと回帰できる。私が何ものかを水と了解し、意識する過程、その確信の成立は、現象の領野にある。

現象の領野

現象の領野は、当人に生じつつある、その当人が立っている場所であり、その景色はその当人のその時点で捉えている世界が見えている。

  • 自転車に乗れるようになりつつある子供が、自転車に乗ることについて記述する、その場所。
  • 難解な哲学書を理解しつつある読者が、その哲学書に何が書いてあるかを記述する場所。
  • 子供が言葉を手に入れつつあるとき、自らの思いを言葉にすること。

以上