2023年9月22日 大谷隆

範囲

緒論 古典的偏見と現象への復帰

Ⅲ「注意」と「判断」

〔反省的分析と現象学的反省〕

〔「動機づけ」〕

私の私自身からの脱出

もし私が身体のうちにあるとともに私自身のうちにあって、私自らこのような空間的関係を考えるのでないならば、そしてこうして、私がこの内属性を表象すると同時にそれを逃れるのでないならば、私は私自身が「身体によって取り囲まれている」と認めるであろうか。もし私が世界のなかにほんとうに捕らえられ、位置づけられているのなら、私はどうして私のそうした状態を知ることができようか。そうだとしたら、私はあたかも一つの物のように、私がいる場所にあるにすぎないだろう。[83]

ここがとても面白い。

「私がいる場所にあるにすぎない」というのは、延長の様態で、つまり物体(Corpus)として存在するということだろう。となると、もう一つの様態である、思惟の様態での精神(Mentos)としの存在も言及される。

だが私は私がどこにいるかを知っており、もろもろの事物のさなかに私自身を見ているのだから、私は意識であってどこにも存するわけではないが、しかも志向的には至るところに自己を現前させることができる得意な存在なのである。[83]

物(Corpus)として、身体(Corpus)に「取り囲まれている」存在であると同時に、自己の身体以外の任意の視点でも意識(Mentos)として存在できる。

精神と身体、「観念論(唯心論)ー主知主義」と「唯物論ー経験主義」は、その両極を示しているにすぎず、「いずれかであって中間はない」ことになる。

メルロ・ポンティの現象学はこの両者の補完関係を突く。

  • なぜ、私が身体によって取り囲まれていると知ることができるのか?

この、自分自身からの脱出によって可能になる精神と身体の両面を重ね合わせた「特殊な存在」の認識は、同様に、

  • なぜ、私は私の目の前にある机が、誰にとっても在ると思えるのか?

という、自己性と共通性の両面をつなぐものでもある。

経験主義も主知主義もお互いに両極に位置し、「そういうものである」という主張をするだけで、自らの主張上の不都合は「錯覚」「誤謬」として例外処理する。しかし、ここに実は両者が同時に陥っている落とし穴があり、知覚という現象そのものを捕らえ損ねている。

メルロ・ポンティの現象学的な観点によって、

  • 自分とは別人でしか無いはずの、小説の主人公に感情移入できる

ことが説明可能になると思われる。人の認知は必ずしも経験や既存の知識に合致することだけではなく、架空であっても、ある程度綿密な世界構築が行われれば、主人公に起こっている出来事があたかも自分に起こっているかのように感じることができる。

知るという現象。主知主義の反省的分析と現象学的反省との違い。

知るという現象はどのようなものか。現象学的に記述する。

しかし私がある対象を眺めるにあたって、それが存在するがままに私の前に豊かな内容を繰り広げるありさまを、ひたすら見ようと心掛けるならば、それはもはや一般的な類型を暗示するものではなくなる。そして私が初めて接する光景の知覚だけではなく、すべての知覚がそれぞれ独自に理解の誕生を繰り返し、したがって天才的な発明にも似たものをもっていることに、私は気がつくのである。例えば私が樹木を樹木として認知するためには、樹木という既得の意味の手前で、あたかも植物界が初めてこの世に現れた日の如く、感覚的な情景がその場で整頓されて、新たにこの樹木の個体的な観念を素描し始めるのではなくてはならないのである。[93]

この記述は、現象学的反省によってなされている。現象学的還元により、「意味の手前」にとどまり、そこで起こっている現象を反省することで得られている。一方、主知主義的な反省的分析では、樹木を樹木と知るためには既知の樹木に所属する何かへの分類によってなされる。つまり「根拠」によって知ることになる。

しかし、デカルトも、根拠を必要としない知について言及していた。それが「直観」であり、それを発展すべきだった。

私はあるものだと私が思惟する間は、私は無であらせることは決してできはしない。あるいは、私があるということがいま真であるからには、私がかつてあったことがないということを、いつか真であらせることは決してできはしない。[94]

私が考えている間、私は確かにある。今、まさに私がある、のであれば、将来、私はあったことがない(なかった)ということになるときは来ない。この「存在の確信」は根拠がない。私があると思えばある。それを覆すことはできない。つまり、デカルトの反省的分析も、実はこの無根拠な「存在の確信」、「存在の独断論的観念」に完全に依拠している。

原因でも根拠でもない、動機

主知主義も経験主義も、物事を原因もしくは根拠によって説明する。ゲシュタルト学派も心理学の一派である以上、ここから逃れられていない。

距離の知覚について、距離というものをどうやって把握するのかについて、古典心理学は、

距離の知覚が、対象の見かけの大きさ、網膜上の2つの映像の間の差異、水晶体の調節、両眼を集中する角度などからの推論であるとか、(略)主張する[95]

しかし、ここに出てくる様々な距離の「標識」というのは一体何のことなのか。すべての対象にはそれぞれの距離があるが、そのうち「標識」たるような特別な対象はあるのか。恒常性仮説における「正規の感覚」がそれに相当することになる。

しかし、視覚にとってどの対象までの距離も特別であるはずがない。

いわゆる距離の標識と称せられるもの、ーー対象の見かけの大きさ、対象とわれわれとの間に介在するさまざまな対象の数、網膜上の映像の差異、眼球の調節と収斂の程度ーーは、対象から転じて対象の提示のされ方に向う分析的もしくは反省的知覚において初めてはっきりと知られるのであって、したがってわれわれは、距離を知るためにこれらの媒介物を通過するのではないということを、ゲシタルト学説はいみじくも明らかにした。[96‐97]

例えば、地表近くに見える月は、天頂の月に比べて大きく見える。この説明として、地表近くにはビルや山などがあり、月を見たときの視野にそれらが入ってくる。そのビルや山といった「視野の介在物」によって、視覚を得るため、そういった対象のない天頂の月に比べて大きく見えている。古典心理学は、こういった「視野の介在物」と「恒常性仮説」によって、この「錯視」を説明しようとする。

これに対して、ゲシタルト学説は、「そう見えている」という視覚の全体から、視覚というものを論じることを可能にした。「視野の介在物」という要素的原因から距離を組み立てるという古典心理学から一歩抜け出ている。しかし、心理学である以上、この二つの月の大きさの違いが「錯視」であり(筒で覗けば同じ大きさに見えることから「錯視」とされる)、それを何かしらの根拠をもとに説明しなくてはならないという知覚現象自体の捉え方を刷新することはできなかった。

つまり、

身体的印象や視野の中間に介在する諸対象は、距離を知覚する際の標識理由ではないのだから、この知覚の原因でしかありえない[97]

と結論せざるを得ない。

しかし、現象学的な反省によれば、月がその大きさに見えることの「説明」をするためには、月を見ようとする「動機」が必要になる。それは同様に、開いたものと閉じたものという「羽」がついた二本の直線の長さを見ようとすることや、白黒の絵に描かれている老婆か娘を見ようとするという「動機」によって、視覚は変化しうるという、知覚というものそのもののカテゴライズを刷新する必要がある。視覚というものは、主体の動機を含ん世界構築の一環であり、その主体の動機を無視した無人称的な「原因ー結果」によって説明されつくすものではない、と。

意識は、生理学的原因が意識の外部で生み出しでもしたかのような錯覚的な現象を、出来上がった姿で受けとる、というものではない。錯覚が生ずるためには、患者が左の方を見ようと意図し、自分の目を動かしているつもりになったということがぜひとも必要である。自分の身体に関する錯覚が、対象における運動の見かけを誘い出すのである。[97]

月の大きさの「錯覚」もそうだが、多くの「錯覚」が、必ずそう見えるわけではない。ある種の「客観的な視覚」というべき特殊な見方をすれば、ミュラーリア錯視も同じ長さの線分に見える。意図的に線分から世界を見ようとする無意識的動機を消すことが可能であれば、図中の線分は紙に張り付いたインクのシミの長さにしか見えない。

知覚を現象学的還元によって記述するには原因や根拠ではなく「動機」(という主体的で曖昧な)を概念として含む必要がある(「動機づけ」)。

以上